斎藤茂吉『あらたま』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方で、語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『あらたま』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
『あらたま』全作品の筆写は斎藤茂吉『あらたま』短歌全作品にあります。
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まかがよふ昼のなぎさに燃ゆる火の澄み透るまのいろの寂しさの解説
歌の意味と現代語訳
昼の光にかがやく渚に燃える炎の澄みとおる時の色の寂しいことよ
出典
『あらたま』大正4年 9 渚の火
歌の語句
まかがよふ・・・「ま」は接頭語 かがようは「耀う」の動詞で「きらきら光って揺れる」の意味だが、佐藤佐太郎も指摘するが、古いところに用例がないため、作者の造語とされる。
なお、『あらたま』には「まかがよふ」で始まる歌は他に4首ある。『あらたま』全作品を見る
ま・・・「間」あいだ
■島木赤彦の「まかがやく」の用例
夕焼け空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖のしずけさ 島木赤彦の初期短歌代表作品
表現技法
句切れなし 「寂しさ」は名詞の体言止めで、『あらたま』には「寂しさ」止めは5首ある。
広い情景から、ピンポイントで一つの物に焦点を狭めて、その一つをクローズアップする手法は茂吉にはよく見られる。
鑑賞と解釈
8月に茨城県磯原というところに滞在した。その海岸で海人(あま)や漁師が暖を取るために焚火を囲んでいる情景を詠んだもの。
炎の色という微細なところに注目し、そこに感じるものを取り上げるという繊細で感覚的な歌である。
「作歌四十年」より作者の解説
火炎が澄んで燃え立つまでに何ともいえぬ微妙の層を呈するものである。それをあらわして見ようとしたのであった。この一首も、ああも作りこうも作って、かろうじて此処まで至ったことを想起することが出来る。この一首の歌調は、なだからに言っていて、割合に重厚である。そこが私の力量を以ってしてあはそう容易でなかったので、おもいでとなり得るのである。(原文ママ)(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)
現実の看方が一転化しようとした傾向を示し(中略)現実感の生々としていないのは、仏典辺りに流れている、「澄朗」の感を欲したからではなかったろうかと思う。{斎藤茂吉集巻末の記)
佐太郎の評
焚火の色彩に重点を置いて「いろの寂しさ」といっている。現れているところは「澄み透る」炎の色であって、昼の強い日光の差している海の渚にその炎が立っているのが象徴的である。現実の炎の色を「寂しさ」として受け取ったのがひとつの発見である。「まかがよふ」の「ま」は接頭語であって、「耀ふ」という意である。意味よりも恩寵によって枕詞格に使われている。それから、海ということをいわないで「昼の渚」とだけいって、そして結句を「寂しさ」と名詞で止めている。直線的で重厚な声調である。このあたりの作者の志向というものがうかがえるだろう。 「茂吉秀歌」佐藤佐太郎
一連の歌
9 渚の火
まかがよふ真夏渚に寄る波の遠白波の走るたまゆら
真夏日の海のなぎさにもえのぼる炎のひびき海人(あま)はかこめり
六人の漁師が囲(かく)みあまりをる真昼渚の火立(ほだち)のなびき
くれなゐにひらめく火立を真昼間の渚の砂に見らくし悲し
まかがよふ昼のなぎさに燃ゆる火の澄み透るまのいろの寂しさ
すき透り低く燃えたる浜の火にはだか童子は潮にぬれて来
旅を来て大津の浜に昼もゆる火炎(ほのほ)のなびき見すぐしかねつ
いばらきの大津みなとの渚べをい行きもとほり一日わらはず
*この歌の次の歌
歌の意味と現代語訳
ここに至ってこころが痛々しい。目の前に迫る山に雪が積もっているのが見える
出典
『あらたま』大正4年 13 冬の山「祖母」其の一
歌の語句
ここに来て・・・この地に着いて、の意味だが、心がそこに至って、と気持ちが高まってくる過程を含んで表している
いたいたし・・・痛々しい
まなかひ・・・まなかい、目の前に
見ゆ・・・は現代語の「見える」の意味の語の基本形
対して、「(私が)見る」の場合の基本形は文語でも現代語と同じく「見る」
表現技法
2句切れ
「ここに」「こころ」のコ音。または「まなかひ」「せま」「やま」「見ゆ」のマ行音、「迫れる」「つもる」のル音など、整った音韻にも注意
鑑賞と解釈
祖母が亡くなった知らせに駆けつけてみれば、家の目の前に雪の積もる山が見え、一層心が痛む思いがするという意味の歌。身内の逝去への反応という抽象的なものではなく、実景を添えて、より実感の伝わりやすいものとなっている。
また、この「雪」は単なる雪ではなく、東北の厳しい冬と寒さを表す雪であることを感じたい。
「作歌四十年」より作者の解説
眼前に迫る冬山にもう雪が降りはじめたという、恐ろしいまでに厳しい趣である。「心いたいたし」は上句なって、「ものの行とどまらめやも」などと類似の手法であるが、これにはまたこれの特徴が出ている。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)
佐太郎の評