にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞です。このページは現代語訳付きの方です。
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※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
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にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
作者と出典
斎藤茂吉 『赤光』 「根岸の里」
『赤光』代表作一覧 現代語訳付き
一首の意味
子どもを背負う子守の子どもがいる。この子は笑わない
解説と鑑賞
『赤光』の中の「根岸の里」の一首目に置かれ、子規の生前の家を訪ねた時に出会った少女と、その風景を詠ったものとなる。
集中、特色がある作品として指摘される理由が、初句の「にんげんの」の異様さにある。
内容は、笑わない子どもが赤子を背負っているというだけなのだが、そのことに対して、作者が着目するそれ自体も独特である。
子守なので当然のはずの「にんげん」が、わざわざ初句に置かれ、かつ、ひらがな表記されて強調されている。
他に「にんげん」の表記を用いた『赤光』の短歌は
にんげんは牛馬(うしうま)となり岩負ひて牛頭馬頭(ごづめづ)どもの追ひ行くところ
自殺せる狂者をあかき火に葬りにんげんの世に戦きにけり
がある。
前者は、地獄極楽図の異界の亡者である「にんげん」であり、後者は、獣の世界に対する「にんげん」ともいえる。
塚本邦雄の解説
嬰児を負う子守がにこりともしなかった。散文に要約すればそれだけのことである。
まずこの初句「にんげんの」一語で読者は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。鈍器、まさに鉛のハンマーで打たれるか、摩滅し錆びた刃物で切られる時の 、鈍い鈍痛に似たものが、この一種の読後感そのものであろう。「子守」を二度繰り返し、それに「はも」を添えて強調する -『茂吉秀歌』
本林勝夫は『茂吉遠望』で、この歌を
「赤子」を背負った子守がにこりとも しないで無愛想に突っ立っている。ただそれだけのことだが、その無表情な子守の姿から受けるある不気味さ--それが「にんげんの赤子」という表現で際立ってくる。いったい「赤子」が人間であることを知りきったことだろう。その日常的無意識的な了解領域にあるものを殊更に断っているのはなぜか。そう思う時、「茂吉用語」の磁場に引き寄せられ、既に普通語でなくなっている。
として、一連の「茂吉用語」を取り上げている。
要は、斎藤茂吉の言葉の使い方に、大きな特色があり、その裏には作者の特異な感覚がある。
一連の歌
犬の長鳴
よる更けてふと握飯(にぎりめし)くひたくなり握飯(にぎりめし)くひぬ寒がりにつつ
われひとりねむらむとしてゐたるとき外(そと)はこがらしの行くおときこゆ
遠く遠く流るるならむ灯をゆりて冬の疾風(はやち)は外面(とのも)に吹けり
長鳴くはかの犬族(けんぞく)のなが鳴くは遠街(をんがい)にして火かもおこれる
さ夜ふけと夜の更けにける暗黒(あんこく)にびようびようと犬は鳴くにあらずや