沼の上にかぎろふ青き光よりわれの愁の来むと云ふかや
斎藤茂吉の代表作短歌集『赤光』の有名な連作、「死にたまふ母」の歌の現代語訳と解説、観賞を記します。
スポンサーリンク
斎藤茂吉の記事案内
『赤光』の歌一覧は、斎藤茂吉『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞にあります。
「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の語の注解と解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『赤光』の歌の詳しい解説と鑑賞があります。
※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列していますので、合わせてご覧ください。
・・・
沼の上にかぎろふ青き光よりわれの愁の来むと云ふかや
現代語での読み:ぬまのうえに かぎろうあおき ひかりより われのうれえの こんというかや
歌の意味と現代語訳
沼の上にひかっている青い光から、私の今の憂いが来るだろうというのかい
※「死にたまふ母」一覧に戻る
斎藤茂吉「死にたまふ母」全短歌作品 現代語訳付き解説と鑑賞
歌の語句
・沼…山形県南陽市の白竜湖
・かぎろふ…読み「かぎろう」。かげろう「陽炎」の動詞。意味は「空を赤く染めて光る。 また、光や影がゆらいで見える。」
・愁…仮名は「うれへ」。「愁い」に同じ。「心配。悲しみ。嘆き」
・来む…読みは「こん」。来る+む(未来・推量の助動詞)
・いふかや…言う+かや(感動の終助詞)
句切れと修辞・表現技法
- 句切れなし
- 疑問形での終止 以下に解説
解釈と鑑賞
「死にたまふ母」其の1の10首目の歌。
ややわかりにくい内容だが、茂吉独特の語法があり、工夫の施された歌。
意味は、電車から見かけた白竜湖が青く光って揺らいでいる。通常ならば、それがまた悲しい」と結び付けるところだが、作者は、そこにも強引ともいえる因果関係を起き、「自分の憂いは、その青い光のためだろうか(もちろんそうではない)」と、反語的に問うという形に
なっている。
「来むと云ふかや」の意味
他の注釈だと
暁の沼に漂う青い光を見ているとその光から自分の憂いが胸に迫ってくることだ、の意-「斎藤茂吉注釈」
と端的に述べているものが多いが、「来むと云ふかや」は、
「来るだろうと言うのかい」を素直に逐語訳すれば、「来るだろうと言うのかい」となるはずです。(『異形の短歌』品田悦一著)
つまり、
あの沼の辺りでちらちらしている青い光から私の憂いが湧いて来るだろうとでも言うのかい
が正しい訳となる。
この語法の類似のものは、『赤光』の悲報来の「赤彦と赤彦の妻吾に寝よと蚤とり粉を呉れにけらずや」にも見られる。
この短歌の前後の一連
吾妻(あづま)やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり
朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて母にちかづく汽車走るなり
沼の上にかぎろふ青き光よりわれの愁(うれへ)の来(こ)むと云ふかや 白龍湖
上(かみ)の山(やま)の停車場に下り若くしていまは鰥夫(やもを)のおとうとを見たり