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ぷらぷらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく 斎藤茂吉『つきかげ』

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ぷらぷらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく

斎藤茂吉の孫を詠んだ短歌、晩年の作品を収めた最後の歌集『つきかげ』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。

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斎藤茂吉の記事案内

斎藤茂吉の歌集『つきかげ』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。

斎藤茂吉がどんな歌人かは、斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」 をご覧ください。

 

ぷらぷらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく

読み:ぷらぷらに なることありて わがまごの さいとうもいち ろじょうをあるく

歌の意味と現代語訳

歩みが時折ふらふらとなることがあって、幼い私の孫の斎藤茂一が路上を歩んでいる

歌集 出典

斎藤茂吉『つきかげ』

歌の語句

  • ぷらぷら…作者独特の擬音
  • 斎藤茂一は長男、斎藤茂太氏の長男。茂吉の初孫にあたる

修辞・表現技法

  • 句切れなし

 

鑑賞と解釈

最終の歌集『つきかげ』より、孫を詠んだ歌で最もよく知られている作品のひとつ。

斎藤茂一氏は、長男茂太の長男で、茂吉には初孫にあたる。

斎藤茂吉は、他に次男の章二氏と散歩をするのが日課になっていたが、その時の孫の様子を詠んだもの。

茂一氏はその後、茂吉、茂太氏と同じく精神科医となっている。

一首で目を引くのは初句の「ぷらぷら」だが、これは元々は「ふらふら」なのであるが、作者は「ぷ」の音を選択している。

なぜかはわからないが、そういい表したい気持ちがあるのだろう。あるいは、弱った人に用いる「ふらふら」と差別化したかったものかもしれない。

「わが孫の」のあとの「斎藤茂一」との名前は、やはり記念的な意味合いがあるのかもしれない。「茂吉」とは一時違いの名前である。

佐藤佐太郎の評

以下は佐藤佐太郎のこの歌の評と解説。

斎藤茂一は茂太博士の長男で、当時3歳頃の小童に当たるはずである。その小童を遊び相手として路上を歩かせているところで、まだ脚力が確かでないから少し長く歩くと体がふらふらする。それを「ぷらぷらになることありて」と言った。

こういう副詞はどう言っても誤りということはできないが、それにしても「ぷらぷら」は独特である。『赤光』以来このような特殊な畳語が多いのは、この作者の特徴である。その中には特別な感覚に基づくものもあり、郷土的な訛りのようなものもあるだろう。説明の様子を省略して端的に率直に言って主観を暗示するのは晩年の作にふさわしい。―「茂吉秀歌」より

斎藤茂吉の他の孫の短歌

歌集『つきかげ』より他の孫の短歌。

この春に生れいでたるわが孫よはしけやしはしけやし未だ見ねども
をさな兒と家をいでつつ丘の上に爽(さわ)やぐ春の香をも欲する
不可思議の面もちをしてわが孫はわが小便するをつくづくと見る
欠伸(あくび)すれば傍にゐる孫眞似す欠伸といふは善なりや悪か
われの背(せ)にゐるをさな兒が吃逆(しやくり)せり世の賢きもするがごとくに
現實(げんじつ)は孫うまれ来て乳(ちち)を呑む直接にして最上の春
孫ふたりわれにまつはりうるさけど蜜柑一つづつ吾は與(あた)ふる




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