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いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを 斎藤茂吉「死にたまふ母」

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いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを

斎藤茂吉の歌集『赤光』「死にたまふ母」から主要な代表歌の現代語訳付き解説と観賞を記します。この歌は母の火葬の場面を詠っています。

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斎藤茂吉の記事案内

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「死にたまふ母」の全部の短歌は別ページ「死にたまふ母」全59首の方にあります。

※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。

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いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを

読み:いのちある ひとあつまりて わがははの いのちしゆくを みたりしゆくを

現代語訳

生きている人が集まって、私の母の死んでいくのを見ている その命が死んでいくのを

出典

『赤光』「死にたまふ母」

歌の語句

  • いのちある…死者に対して生きている人たちを指す
  • 死行く…読みは「しゆく」。「死んでいく」との意味であることはわかるが、語法的には無理があることが指摘されている。

句切れと表現技法

  • 4句切れ
  • 倒置




解釈と鑑賞

歌集『赤光』の中の一首。母が亡くなった直後の部屋の様子を詠ったもの。

この一首で、母の周囲には様々な「人」がいたことが、初めて明らかになる。

ここにいたるまでも、斎藤茂吉の長兄、妹、弟他のその家族らが、回りに付き添っていたと思われるが、歌は、周囲の人の存在を感じさせない形で詠まれていた。

歌の内容は、母の臨終を見守っていた作者茂吉が、ふと気が付くと、母を見守る多くの人に取り囲まれている。

茂吉がそこを離れようとしてなお、母の死を物珍しいものでも見ているかのようで、人々への反発にも思えるが、それについて、塚本邦雄は

「いのちある」の中の一人は作者であり、共に死ぬこともかなわぬ身は、ついに、母の死を傍観する他にはないその口惜しさを、このように、叩きつけるように歌っているのだ。

と断言する。

「死行く」の語法

「死行く」については、「「死」のような漢語に「行く」を続けるのは無理」として。「語法上の破綻がある」と品田悦一氏が指摘している。

関連記事:
「死にたまふ母」の敬語の意味と訳 「死にたまふなり」「死にゆきたまふ」の用法

 

一連の歌

母が目をしまし離(か)れ来て目守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり

我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳足(ちた)らひし母よ

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを

ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

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-死にたまふ母

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