斎藤茂吉『つゆじも』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『つゆじも』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
『つゆじも』全作品のテキスト筆写は斎藤茂吉「つゆじも」短歌全作品にあります。
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海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯(いひ)の砂のかなしさ
海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯(いひ)の砂のかなしさ
歌の意味と現代語訳
海辺である唐津の宿の白米の飯に、時折噛み当ててしまう砂が悲しくもわびしいことよ
出典
「つゆじも」大正9年 唐津浜
歌の語句
海のべ・・・海辺
やどり・・・宿のこと
しばしばも・・・しばしば
用例:わたの原寄せくる波のしばしばも見まくのほしき玉津島かも 古今集 詠人知らず
かみあつる・・・噛み+当てる
表現技法
「やどり」のあとには「に」が省略
「かなしさ」は名詞の体言止め
鑑賞と解釈
子息の北杜夫氏が、茂吉は家でも食事の時に白米の中の石を噛み、舌打ちをしたと書いている。
いくらか滑稽な趣のある歌でもあるが、塚本邦雄は、この歌を芭蕉の「衰(おとろひ)や歯に喰いあてし海苔の砂」の本歌取りだと説明している。
というのも、この歌と同じモチーフと「飯の中にまじれる砂を気にしつつ海辺の宿に明暮にけり」とその一連に芭蕉の子弟の曾良を思う歌「はるかなる独り旅路の果てにして壱岐(いき)の夜寒(よさむ)に曾良(そら)は死にけり」「命(いのち(はてしひとり旅こそ哀(あは)れなれ元禄の代の曾良の旅路」がさらに続くためであろう。
斎藤茂吉の自解
この宿の飯には砂が多く、一椀に平均六つ乃至七つぐらい入っていた。それを噛みあてる毎に私は声を立てたほどである。長崎でせっかく治療してきた歯がここにきて忽ち砕けた。(『作歌四十年』斎藤茂吉)
佐藤佐太郎の評
八月30日から9月11日まで、佐賀県唐津の木村屋旅館に滞在して療養した時の作である。「しばしがも噛みあつる」不快、ひいてわびしさは境遇の悲哀につながっている。(飯の砂を噛む)その事実を「かなしさ」として表現したのが歌の味わいであり、「しばしばも噛みあつる」という的確な言葉の中に詠嘆がこもっている。「茂吉秀歌」佐藤佐太郎
一連の歌
五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは
肥前なる唐津の浜にやどりして唖おしのごとくに明暮あけくれむとす
海のべの唐津(からつ)のやどりしばしばも噛(か)みあつる飯(いひ)の砂(すな)のかなしさ
朝(あさ)のなぎさに眼(まなこ)つむりてやはらかき天(あま)つ光(ひかり)に照(て)らされにけり
砂浜(すなはま)にしづまり居(を)れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも
孤独(こどく)なるもののごとくに目のまへの日に照らされし砂(すな)に蠅(はへ)居(を)り