「わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ」
斎藤茂吉の短歌を一首ずつ鑑賞、解説しています。
この記事は斎藤茂吉最後の歌集『つきかげ』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
スポンサーリンク
わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ
読み:わがせいは かくのごとけん おのがため なっとうかいて かえるゆうぐれ
歌の意味
私の生活は、振り返ってみるとこのようなものであっただろう。自分のために納豆を買って夕暮れの町を帰ってくる
歌集 出典
斎藤茂吉 『つきかげ』
語句と文法
・生…「せい」の作者のルビがある。佐藤佐太郎は「生活」としている。あるいは一生のこと
・かくのごと…「かくのごと」は「このような」
・けむ…「けむ」は過去の推量「…ただろう。…だっただろう」
または、過去の原因の推量「たというわけなのだろう。(…というので)…たのだろう」
・おのがため…自分のために。一人称。わたくし。われ。類語「己(おのれ)
表現技法
3句切れと体言止め
斎藤茂吉の記事:
斎藤茂吉 三時代を生きた「歌聖」
鑑賞と解釈
斎藤茂吉最後の歌集『つきかげ』所収の作品。
作者はこのとき、68歳。自分のために、自ら食べるものを買って帰るという生活の断片に孤独感がにじむ。
納豆という美食とは程遠い、質素なものを買って帰るという点に、寂しさの他にもわびしさが漂う。
好きな鰻のし好の変化
斎藤茂吉は、健啖家で知られていたようだが、この歌の前に、「ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする」というものがある。
年を取ったので、単純に素朴な物へ好みが変わったのだともいえるし、「納豆」に何ともいえないおかしさもうかがえる。
この年の次には、
われつひに六十九歳の翁(おきな)にて機嫌よき日は納豆など食む
というものもあり、納豆を買いに行くことが、細々とした老いの楽しみでもあったのだろう。
しっかりと生活に根付くことを老いて自ら行っているという点で、決して侘しく淋しいだけの歌ではないとも考えられる。
これまでの人生の振り返り
さらに、この歌は買ったもののことよりも、具体的な生活の断片を取り上げて、「わが生はかくのごとけむ」とこれまでの人生を総括するような内容となってもいる。
他にこの時期の歌としては自らの生涯を振り返って、「わが生きし嘗(かつ)ての生もくらがりの杉の落ち葉とおもはざらめや」もある。
佐藤佐太郎の評
以下は佐藤佐太郎のこの歌の評と解説。
68歳の老翁が、、自身のために自身の空納豆を買って夕暮れの街を帰ってくる、こんな形が自分の生活だというのである。
「おのがため納豆買ひて」といった、この三四句あたりから、寂しい自画像が顕っている。何故寂しいのか、とにかく瑣末な行為が、人の姿の寂しさとおかしさと、生きた姿を感じさせる。
良寛の歌に「山ずみのあはれをだれにかたらまし葱籠に入れかへる夕ぐれ」というのがある、作者はこの歌を記憶していたかもしれないし、あるいはこれが天衣無縫の一つの現れといってもよいだろうか。(中略)
良寛でも茂吉でも「あはれ」な自らの生活を言っているが、ただひたすらに悲しんでいるのでもない。その生活を自ら味わっているのが語調に出ている。
一連の歌
生活を単純化して生きむとす単純化とは即ち臥床なり
目のまへの売犬の小さきものどもよ成長ののちは賢くなれよ
黄蝶ひとつ山の空ひくく翻る長き年月かへりみざりしに
わが生きし嘗ての生もくらがりの杉の落葉とおもはざらめや