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斎藤茂吉と吉井勇の交流 再婚を祝福するはがきと短歌

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斎藤茂吉と吉井勇は短歌の作風は違いましたが、歌の上での交流がありました。

斎藤茂吉が吉井勇に贈った短歌と、二人の交流について記します。

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斎藤茂吉と吉井勇との関係

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吉井勇は、明治19年生まれ、15年生まれの斎藤茂吉とほぼ同年代です。

吉井が投稿を始めたのは、『明星』で、写実派の斎藤茂吉とは、派も歌風も違いますが、二人の間には交流があったことが分かっています。

まずは、長崎にいる時に、吉井が斎藤茂吉を訪ねたようです。

大正九年五月頃、長崎に往つて斎藤茂吉君と会つた時で、その時私は銅座町の永見夏汀君の家に十日近くも滞在していて、そのあたりの社寺や旧蹟などを見て歩いた。その時分茂吉君は、病中であつたにも拘らず、大抵毎日私と行いを共にしてくれたが、茂吉君の歌集に名前の出て来る武藤長蔵君も、時々やつて来ては一緒にそこらを歩き廻つてくれた。『歌人会』吉井勇

そして

長崎の茂吉はうれし酒飲みてしばしば舌を吐きにけるかも

これは、「ペロリさん」と呼ばれていた茂吉の癖を詠んだものでしょう。

さらに年月が経っても、その時を回顧する吉井の歌があります。

長崎に茂吉のありしころ戀しいまも忘れず丸山の酒

 

斎藤茂吉が吉井勇に贈った歌

斎藤茂吉の歌集『白き山』には、吉井が短歌研究に発表した歌に返した、斎藤茂吉の歌があります。

なほ臥(こや)るわが枕べに聞こえ来よ君住む京の山ほととぎす

観潮楼に君と相見し時ふりてほそき縁(えにし)の絶えざるものを

おもかげに立つや長崎志那街の混血をとめ世にありやなし

ひそかにも告げこそやらめみちのくに病みさらばひて涙ながると

老人となりてゆたけき君ゆゑにわれは恋しよはるかなりとも

 

1首目、吉井勇は再婚後京都に住んでおり、その「京の山」に思いを馳せたもの。

2首目は吉井の、「観潮楼歌会のこおろのおもひでも涙をさそふばかり古りぬる」観潮楼は、森鴎外主催の歌会で、吉井とはここで知り合ったようです。

それ以下も吉井の「白髪となりやしつらむ友おもひその歌読めば寂しもわれは」「友もわれも甥の境に入りぬらしこのごろの歌とみに寂しく」「ここはしも蔵王にあらね採りて来し山独活の香りも友をはしむ」などに応えたものでしょう。

ダンスホール事件で共に家庭不和

吉井勇と斎藤茂吉の共通点は、共に、家庭不和を経験したというだけではなくて、ダンスホール事件、吉井の側は「不良華族事件」と言われた、ダンス教師との双方の妻の不倫でした。

吉井はその件で妻と離婚の後再婚。斎藤茂吉は妻と一時の別居を経験しています。

当時、『白桃』には、

こがらしのおとを恋いつつ立ちいづる吉井勇は寂しきろかも

という歌が見られ、深い同情が示されていますが、これは、斎藤茂吉も同じ気持であったでしょう。

吉井勇の再婚を祝う短歌

吉井の再婚に際しては、斎藤茂吉ははがきを送っています。

歌人の斎藤茂吉(1882~1953年)が友人の歌人吉井勇(1886~1960年)に送ったはがきが、京都府立総合資料館で見つかった。再婚をうらやむ歌が記されており、吉井を研究している高知工業高等専門学校の細川光洋准教授は「作風の違う2人の親交の深さが分かる資料」としている。
不倫騒動を起こした妻と別れ、長く思いを寄せていた女性と再婚した吉井を祝福するはがきも。日中戦争の南京陥落よりも君の新生活が喜ばしいという意味の歌が記されている。

その短歌は、

勝鬨(かちどき)のうづもよけれど南なる君が家居もにくからなくに

というもので、時局に即したものとなっています。




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