あらたま 茂吉一首鑑賞

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 「あらたま」斎藤茂吉

更新日:

 

斎藤茂吉「あらたま」から主要な代表歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。
他に佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した一部の歌の解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
「あらたま」全作品の筆写は斎藤茂吉「あらたま」短歌全作品にあります。

スポンサーリンク




あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

 

現代語訳
あかあかと一本の道が野に通っている。それこそが私の命であるのだなあ


出典

「あらたま」大正2年 6一本道

歌の語句
「あかあかと・・・作者の他の歌同様「明々」か「赤々」かの区別がはっきりしないが、ひらがなで記されたときは、その両方を含むと受け取ってよさそうだ。 
たまきはる・・・枕詞「いのち」にかかる。「魂極まる」「魂刻む」の意味で万葉時代から使われた。
なりけり・・・なり+詠嘆の助動詞「けり」

表現技法
三句切れ
「たり」-「なりけり」の韻あり

解釈と鑑賞

作者自身がこの歌を述べて、「秋の一日代々木の原を見渡すと遠く一本の道が見えている。赤い太陽が団々として転がると、一本道を照りつけた。僕らはかの一本道を歩まねばならない。」とある。

 

作者の注

また、「この一首は私の信念のように、格言のように取り扱われたことがあるが、そういう概念的な歌ではなかった」。

概念的云々というのは、スローガン風の歌ではないという意味。
ちなみに「概念的」という言葉は、アララギ派の内では、評の際によく聞かれる言葉である。

「左千夫先生の死後であったので、おのずからこういう主観句になったものと見える」ともあるが、風景自体は代々木原の実景をもとにしているものである。

 

「僕ら」というめずらしい複数

「僕ら」はやはり当時のアララギのメンバーを差すのだと思うのが自然であり、師の伊藤左千夫の逝去後に自分自身を叱咤激励し、同時に他の面々にも呼び掛けたい気持ちもあったのだろう。

 

揺れ動く心

なお、塚本邦雄はこの一首前の「野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命を落としかねつも」に、上の作との心境の不一致を指摘しながら、「一首のみが独立して、人の口と呼ぶ恐ろしい次元を遊行する例証ではあるまいか」と締めくくっているのもおもしろい。

私自身は、なぜその両方を載せたのかを不思議に思う。この場合は前の歌がなければ、後ろの歌も成立はしないだろう。

そのあとの「こころむなしく」「秋づける」「かなしみて」と比べると、歌に詠むべき心境とはむしろ定まりがたいもので、外界を離れた単体としての人の心などというものはないということを思わされる。

 

佐太郎の解説

強烈に日に照らされて、行く手に見える一本の道は、自分の行くべき道であり、自分の生命そのものであるという、強い断定が一首の力である。瞬間に燃えたつような感動をたくましく定着した点に注目すべき歌である。一首は荒々しく直線的に、単純で力強い。
「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

この直感の背後につながるゴッホの絵画をおもうこともできるし、「あかあかと」に芭蕉の句を、「命なりけり」に西行のかげをおもうこともできる。そういう影響は、消化されて血肉となって新しく生きている。斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説(上)(岩波書店「斎藤茂吉選集1」解説)

 

一連の歌

6 一本道
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
野の中にかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
はるばると一すぢのみち見はるかす我は女犯をおもはざりけり
我がこころ極まりて来し日に照りて一筋みちのとほるは何ぞも
こころむなしくここに来れりあはれあはれ土の窪(くぼみ)にくまなき光
秋づける代々木の原の日のにほひ馬は遠くもなりにけるかも
かなしみて心和ぎ来むえにしあり通りすがひし農夫妻はや

 

この歌の次の歌

草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

 

歌の意味と現代語訳
草の葉に動いている朝の蛍よ その蛍と同じように短い私の命をゆめゆめ死なせることのないように

出典
「あらたま」大正3年 7 朝の蛍

歌の語句
づたふ・・・つたう 葉に沿って動くの意味

みじかかる・・・形容詞「短し」の活用 カリ活用と呼ばれる
死なしむ・・・「~させる」の使役 「死なせる」
ゆめ・・・「ゆめゆめ」と同じ。「けっして」の意味の文語。
「ゆめ」のみで、「ゆめ忘るな」「ゆめ驚くことなかれ」など、多く否定の文中に用いる

表現技法

2句切れ
「ゆめ死なしむな」の「ゆめ」を倒置で結句に置き、念を押す印象を残す

鑑賞と解釈

以下に解釈と鑑賞を記します

自らの命のはかなさ

蛍の命は5日とも7日とも言われるため、「はかないもの」のたとえに使われることが多く、その蛍と自分を同じように見て、命の短さをはかなみつつ、「死なしむな」と呼び掛ける。

この時作者は32歳であるが、「存在の不安感が人一倍深かった」と言われるように、なぜか自らを短命であると思い込んでいたようだ。

その自らの命に対する祈りのようなものが、敬虔に謙虚に表されている。

 

一連の背景にある結婚

作者はこの年の4月に結婚したとされるが、一連中に「靴下のやぶれ」を詠ったものもあり、新妻との交流が十分でなかったこともうかがえる。

一連の他の歌も哀しいトーンのものが多く、長年期待してやっと果たした成婚が、作者の思ったような変化をもたらさなかったのかもしれないとも思う。

 

呼びかけの相手

「死なしむな」と呼び掛けている相手は、下の自解によると「蛍」そのものとなるが、塚本は蛍以外の「造物主」を否定しつつも示唆している。

なお、作者は「朝の蛍」の題名で後に自選歌集を出しており、この歌を気に入っていたようだ。

以下に作者と佐藤佐太郎の解。

 

朝草の上に、首の赤い蛍が歩いている。夜光る蛍とは別様にやはりあわれなものである。ああ朝の蛍よ、汝とても短い運命の持ち主であろうが、私もまた所詮短命者の列から免れがたいものである。されば、汝と相見るこの私の命をさしあたって死なしめてはならぬ(活かしてほしい)というぐらいの歌である。「作歌四十年」斎藤茂吉)

「われのいのちを死なしむなゆめ」は作者のいう通り、蛍に呼びかけた言葉であるが、蛍をも作者をもこめて、第三の絶対者に向かった言葉としてひびいいている。直感的に単純であるべき抒情詩だからこういう飛躍と省略がまたあるので、意味合いの合理性のみをもとめるとしたら、こういう歌は作れないし、また味わうこともできないだろう。ここに流れている、無限の哀韻だけを受け取るへきである。                  「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

 

  







おすすめ記事



-あらたま, 茂吉一首鑑賞

Copyright© 短歌のこと , 2018 All Rights Reserved Powered by STINGER.