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月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも 斎藤茂吉

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月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも

斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞を現代語訳付きで一首ずつ記します。

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斎藤茂吉の短歌記事案内

『赤光』一覧は 斎藤茂吉『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞 にあります。

「死にたまふ母」の全部の短歌は別ページ「死にたまふ母」全59首の方にあります。

※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。

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斎藤茂吉とは 日本を代表する歌人

月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも

(読み)つきおちて さよほのぐらく いまだかも みろくはいでず むしなけるかも

【現代語訳】

月が落ちてほの暗い夜だが、まだ仏の姿は見えないで、虫だけが鳴いているのだなあ

【出典】

『赤光』5虫 明治40年

【歌の語句】

  • 三句のかもは疑問の「か」と「助詞」も
  • 結句の「かも」・・・詠嘆の助詞 「だなあ」

【表現技法】

三句と結句の「かも」で韻を踏んでいる。

 

解釈と鑑賞

「弥勒は出でず」と反語的に「弥勒」の存在を暗示する想像がある。

「弥勒」は釈迦入滅後56億7千万年後にこの世に出現して、一切衆生を済度する菩薩と言われる。

救いのないような暗黒の夜から連想が動いて、「弥勒は出でず」と言った。

『赤光』という阿弥陀経の言葉の歌集題名は言うに及ばず、幼い頃から仏教に親しんだ茂吉の性向は、折に触れて歌の中に見え隠れし、それが各歌に独特のニュアンスを添えることとなった。

またこの頃の作品には、初期の空想的傾向がみられる。

師であった伊藤左千夫の影響を受け、「万葉集」に学んで、声調べ、ことばも含めて万葉集に学んでいる点が多いこともわかる。

そして、この「万葉調」は、『赤光』をはじめ、その後の歌集の斎藤茂吉の基底となるものである。

なお、初期歌稿によると「原作の一二句は『現しき世月読や落ち」となっており、それを「月落ちてさ夜ほの暗く」と左千夫が添削していることがわかる。」(佐藤佐太郎「茂吉秀歌」)。

左千夫の添削の方が、単純で声調べが美しく、写生的であることはいうまでもないだろう。

佐藤佐太郎の解説

伊藤左千夫の教えを受けるようになった斎藤茂吉が「虫」という課題に応じた作で、伊藤左千夫の線によって明治40年11月26日の新聞「日本」に載ったうちの一首である。

月が西に没して辺りが暗く静まり返っている夜、地にひびいて虫が泣いているという歌で、救いのないような暗黒の夜から連想が動いて「弥勒は出でず」と4句にいったのであろう。

こういうことを突如としていうのは、茂吉が仏教信仰の厚い家に生い立ち、隣家に当たる宝泉寺に出入りして窿応和尚の感化を受けたためであり、また中学時代から愛読した幸田露伴の影響でもある。―『茂吉秀歌』より

一連の短歌

かぎろひの夕べの空に八重(やへ)なびく朱(あけ)の旗(はた)ぐも遠(とほ)にいざよふ

あめつちの寄り合ふきはみ晴れとほる高山(たかやま)の背(せ)に雲ひそむ見ゆ

いなびかりふくめる雲のたたずまひ物ほしにのぼりつくづくと見つ

『赤光』の次の短歌

かへり見る谷の紅葉の明(あき)らけく天(あめ)にひびかふ山がはの鳴り

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かへり見る谷の紅葉の明(あき)らけく天(あめ)にひびかふ山がはの鳴り

 

斎藤茂吉とは

斎藤茂吉  さいとうもきち

1882-1953  山形県生まれの大正-昭和時代の歌人、医師。息子は、長男が精神科医斎藤茂太、次男が作家の北杜夫。養子に入る前の姓は守谷。

参照: 斎藤茂吉の家系図と家族 両親と養父母、子孫について
斎藤茂吉の息子たち 作家の北杜夫と精神科医斎藤茂太

山形県出身。東京帝大卒。
伊藤左千夫に師事し、「アララギ」同人となる。処女歌集『赤光』で一躍歌人として有名になった近代日本を代表する歌人の一人。

「実相観入」の写生説をとなえた。歌集に「あらたま」「白桃」「白き山」などがある。

斎藤茂吉の各歌集の特徴と代表作

26年文化勲章受賞。昭和28年2月25日70歳で死去。一般向け著作は「万葉秀歌」がベストセラーで有名。

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