あらたま 茂吉一首鑑賞

かうかうと西吹きあげて海雀あなたふと空に澄みゐて飛ばず「あらたま」現代語訳付 斎藤茂吉

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斎藤茂吉「あらたま」から主要な代表歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方で、語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した「あらたま」の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
「あらたま」全作品の筆写は斎藤茂吉「あらたま」短歌全作品にあります。

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かうかうと西吹きあげて海雀あなたふと空に澄みゐて飛ばず

かうかうと西吹きあげて海雀あなたふと空に澄みゐて飛ばず

 

歌の意味と現代語訳
こうこうと西風が吹きあげる中、海雀が空の遠くにふと飛んでいないかのように止まって見える

出典
「あらたま」大正3年 11 三崎行

歌の語句
かうかう・・・「こうこう」 「こうこう」と読む。
西・・・西風
海雀・・・チドリ目・ウミスズメ科に分類される海鳥の1種
あなた・・・向こう、あちら。
例:「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう(上田敏訳『海潮音』所収 カール・ブッセ作「山のあなた」
澄みいて・・・澄む+いる 澄んでいて


表現技法

「海雀」のあとに「の」または「は」の助詞の省略がある。句切れなし

「かうかう=こうこう」は「きらきらと輝くさま。明るく照るさま」で、通常は光に対して用いられる副詞。
位置的には「吹き上げて」にかかるのだが、意味上は「澄みいて」とも関連がある。
また、西風の強く吹く様子の擬音とも取れる。「しんしん」等の畳語同様茂吉独特の用法といえる。

「ふと」というのは海雀がではなくて、作者の気付きの様子であり、「澄みゐて」は、どちらかというと「空」の様子であるが、海雀が主語になっている。よって、よく見ると、語順や形容するものが全体的に曖昧である。

さらに、結句の「飛ばず」は、飛んでいるのであるが、飛んでいないように見えることを「飛ばない」といっている。それが主観であることを伝えるために、全体が上のように統一されているとも言える。

鑑賞と解釈

古泉千樫と妻と三人で三崎に行った折の歌。
「西吹きあげて」は、記紀歌謡「倭(やまと)へに西吹き上げて雲離れ」から来ている。

一連には梁塵秘抄の影響が少なくないが、これは茂吉独自のモチーフだろう。文としては語と語とが不思議なつながりと配置で、普通ではとらえにくい情景が言い表されている。

飛んでいる鳥が「飛んでいないかのように見える」ことが「飛ばず」なのであるが、上4句までで、海雀が空にいることは表され、最後のわずか3文字に「飛ばず」が付け足しのように置かれる。その控えめな「飛ばず」が、作者の主観「飛んでいないように見える」の控えめな提示となる。4句が字余りの8文字であることも効果があるだろう。

「澄みいて」は空の形容でもいいのだが、その空の一部であるかのようにとどまって動きのない鳥の一瞬の様子をとらえたものとなっている。

佐藤佐太郎は取り上げていても、なぜか塚本邦雄の「茂吉秀歌」には入っていない。
また逆に、塚本の取り上げている「入日には」は、佐太郎は挙げていない。茂吉本人の「作歌四十年」にも記載はない地味な歌ではあるのだが、

一連は梁塵秘抄の影響が大きい。
なお北原白秋に「帰命頂礼(きみょうちょうらい)このとき遙か海雀光めぐると誰か知らめや」というのがある。

佐藤佐太郎の解説

「かうかうと」は「しんしんと」などと同じく、この作者が「発見」して頻用した副詞だが、ここでは最も適切にもちいられている。「西吹きあげて」は、海から陸に向かって吹く西風で、「て」で小休止し、省略がある。「あなたふと」は芭蕉の影響もあるかもしれないが、動かすべからざる主観語として使用されている。しかも「海雀・空に澄みゐて飛ばず」の間に入って、一種迫った、甘滑でない語気を形成している。海雀の武重がいちように空に停滞するように見えるところを「空に澄みゐて飛ばず」といったのはおどろくべき的確さである。
                          「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

11 三崎行
いちめんにふくらみ円(まろ)き粟畑を潮ふきあげし疾(はや)かぜとほる
あをあをとおもき煙草のひろ葉畑くろき著物の人かがみつも
ひもすがら煙草ばたけに蹲りをみなしづかに虫をつぶせり
紺に照る海と海との中やまにみづうみありてかぎろひのぼる
ぬすみたる煙草の花の一にぎり持ち歩き来て妻にわたせり
まるくふくれし煙草ばたけの向う道馬車は小さく隠ろひにけり
松並樹くろくはるけしなげけとて笠著て旅路ゆくひとのあり
入日には金の真砂の揺られくる小磯の波に足をぬらす
けふもまた急げいそげとのごり馬とほり過(すが)へる馬を見て嘶(な)く
旅を来てひそかに心の澄むものは一樹のかげの蒟蒻ぐさのたま
しみじみと肉眼もちて見るものは蒟蒻ぐさのくきの太たち
ほくほくとけふも三崎へのぼり馬粟畑こえていななんきにけり
こんにやくの茎の青斑(あをふ)の太茎をすぽりと抜きて声もたてなく
ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる
潮の上にこらえかねたる河豚の子は眼をあきて命をはれり
かうかうと西吹き揚げて海雀あなたふと空に澄みゐて飛ばず
あがつまと古泉千樫と三人して清きこの浜に一夜ねにけり

 

*この歌の次の歌

この夜は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも


歌の意味と現代語訳

この夜更けは鳥獣魚介何ものも静かに居よ。諦めきれずに未練をもって彷徨する自分も静かにあれ

出典
「あらたま」大正3年 4 諦念

歌の語句
鳥獣魚介・・・鳥、獣、魚、貝のことだが、すべての生きもの、万物の意味

なれ・・・「なり」の命令形

か行きかく行く・・・万葉集の柿本人麻呂「夕星(ゆうづづ)のか行きかく行き大船のたゆたふ見れば慰もる心もあらず」にある成句

表現技法

4句が6音で字足らず 以下 7音+3音

意図しての破調と思われる

鑑賞と解釈

「あらたま」を貫く「諦念」のテーマ


この一連のタイトルは「諦念」というものだが、むしろ諦めようとして諦められない自らの有りようを表していると言ってよい。

この歌においては、むしろ自らの心の落ち着きのなさを、引き合いに出した「鳥獣魚介」という自分以外のすべてのものの属性として暗示するところから始まる。

そして騒いでいる昼間の獣たちに「夜」という条件を与えて、「静まれ」というが、それもまた自分の心に対して願うものなのであり、そのように自らの心が客体としてとらえられているところにも、視点の特異さが見られるだろう。

「未練持ちて」には、実際の人物「おひろ」のような対象を挙げる人もいる。その理由として、結婚や留学の計画が進んでいたことなどから実生活が充実していた時期と見る向きがあるが、歌を見る限りでは、しきりに「諦め」を自らに言い聞かせようとする作者がおり、それは「おひろ」への思慕というようなことではないと思われる。

茂吉の心を悩ませていたのは、むしろ目の前の実質的な不満、待ち望んでいた結婚が茂吉の思い描いていたようなものではなかったことに因する。
茂吉の生涯はこの決められた伴侶との不和の不幸の中にあったと言ってもいい。

しかし、そのような、むしろ実体のない孤独と苦悩はこの時期の歌に不思議な精彩を与えている。

なお、同じ種類の歌として、塚本は「赤光」の「月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず蟲鳴けるかも」を同じ系譜の歌として挙げている。

 

佐藤佐太郎の鑑賞と解釈

「鳥獣魚介」は鳥類獣類魚類貝類で、やがて森羅万象の意におちつく。「しづかなれ」の「なれ」は、命令、希求である。「か行きかく行く」はあちらに行きこちらに行き、つまり彷徨である。

事件的背景というものがないのは、「赤光」の境地と違うところで、それだけ純一で深くなっていると言っていいだろう。「鳥獣魚介(てうじうぎょかい)もしづかなれ」という句など、宗教的といってよいほどしずかに沁み徹る語気である。
                          「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

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