あらたま 茂吉一首鑑賞

真夏日のひかり澄み果てし浅茅原にそよぎの音のきこえけるかも「あらたま」斎藤茂吉

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斎藤茂吉「あらたま」から主要な代表歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方で、語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した「あらたま」の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
「あらたま」全作品の筆写は斎藤茂吉「あらたま」短歌全作品にあります。

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真夏日(まなつひ)のひかり澄み果てし浅茅原(あさじはら)にそよぎの音のきこえけるかも

真夏日(まなつひ)のひかり澄み果てし浅茅原(あさじはら)にそよぎの音のきこえけるかも


歌の意味と現代語訳


真夏日の澄んだ光が浅茅が原いっぱいに差している中に、わずかにそよぐ草の音が聞こえるのだ



出典
「あらたま」大正4年 7 寂しき夏


歌の語句

真夏日・・・読みは「まなつひ」
浅茅・・・まばらに生えた、または丈の低いチガヤ。
荒地に生えることが多く、文学作品では、荒涼とした風景を表すことが多い。俳句では秋の季語だが、この歌では真夏。
けり+かもは詠嘆の助動詞。「~であることよ」


表現技法

句切れなし

鑑賞と解釈

表現の妙よりも、情景を的確に表すことで、作者の微細な感覚と、そこにとらえたものを伝えている。

物音はなく、動くものもない。ただ、光の降り注ぐ原がある。

そしてそれに遅れて下句に「そよぎの音」を置くことで、耳を傾けるべくかすかな音が聞こえてきたということが伝わる。

五感を研ぎ澄まして、その音を惜しむ作者の孤独と虚無も同時に見えてくるだろう。

 

作者本人は『浅の蛍』の小記で「こういう静かな、澄んでしいんとしているような風景の歌は、むかしならば、幽玄ないし有心(うしん)の体である。今ならば象徴的歌である」とこの歌と前の「ゆふされば」を述べている。

また「現実感の生々としていないのは、仏典辺りに流れている、『澄朗』の感を欲したからではなかったかとおもう」(『斎藤茂吉集』巻末の記)と言っていることから、「よほど自讃の一首であり、この頃の代表作である」と言われている。

 

「作歌四十年」より作者の解説

茅原一ぱいに夏の強い日光が射して、既に物音が絶えてしまった、とおもう刹那に浅茅のそよぎが幽かに聞こゆるというので、そのころ自分は新発見の如くによろこんでこの歌を作ったのであるが、出来てみれば、新発見の感動ほどにはいかなかった。(「作歌四十年」斎藤茂吉)

作者はそのように述べているが、この箇所は謙遜というべきで、作者本人も満足できる作品だったようだ。

 

塚本邦雄の評

塚本は異常感覚に近い敏感鋭利な自然現象へのリアクション」と否定的でもあるが、それは「写生」との弁の揶揄である。

一方で「怖るべき集中力、この真昼の、逢魔が時めいた一首の真空状態を、茂吉は短歌の事象荘厳化という特性を巧みに活用して、誠に千載一遇の『写生」をなし遂げた」と表現し、この歌のニヒリズムを強調する。

 

佐太郎の評

佐太郎は、この歌を高く評価し、「写生」を肯定している。

浅茅の生えている原に夏の日光がさんさんとふりそそいでいる。おしつけるような光の下に物音もなく静まりかえっているが、気がつけば微かに葉のそよぐ音が聞こえる。瞬間がそのまま永遠につながるような、しいんとした気配を表現している。(中略)情景は自ずから現実の深さを象徴しているが、これは空想によって、予定された構図によってできた歌ではない。物を見える目が敬虔に透徹しているために見えたものである、作者のいう「写生」の究極のひとつがここにある。                   「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

一連の歌

7 寂しき夏
真夏日のひかり澄み果てし浅茅原にそよぎの音のきこえけるかも
まかがよふ浅茅が原のふかき昼向かうの土に豚はねむりぬ
ひじろがぬわれの体中(みぬち)は息づけり浅茅の原の真昼まの照り
停電の街を歩きて久しかり汗ふきをれば街の音さびし
墓地かげに機関銃のおとけたたましすなはちわれは汁のみにけり

*この歌の次の歌

まかがよふ昼のなぎさに燃ゆる火の澄み透るまのいろの寂しさ

 

歌の意味と現代語訳
昼の光にかがやく渚に燃える炎の澄みとおる時の色の寂しいことよ


出典
「あらたま」大正4年 9 渚の火

歌の語句
まかがよふ・・・「ま」は接頭語 かがようは「耀う」の動詞で「きらきら光って揺れる」の意味だが、佐藤佐太郎も指摘するが、古いところに用例がないため、作者の造語とされる。
なお、「あらたま」には「まかがよふ」で始まる歌は他に4首ある。「あらたま」全作品を見る

ま・・・「間」あいだ

表現技法
句切れなし 「寂しさ」は名詞の体言止めで、「あらたま」には「寂しさ」止めは5首ある。
広い情景から、ピンポイントで一つの物に焦点を狭めて、その一つをクローズアップする手法は茂吉にはよく見られる。

鑑賞と解釈

8月に茨城県磯原というところに滞在した。その海岸で海人(あま)や漁師が暖を取るために焚火を囲んでいる情景を詠んだもの。 炎の色という微細なところに注目し、そこに感じるものを取り上げるという繊細で感覚的な歌である。

 

「作歌四十年」より作者の解説

火炎が澄んで燃え立つまでに何ともいえぬ微妙の層を呈するものである。それをあらわして見ようとしたのであった。この一首も、ああも作りこうも作って、かろうじて此処まで至ったことを想起することが出来る。この一首の歌調は、なだからに言っていて、割合に重厚である。そこが私の力量を以ってしてあはそう容易でなかったので、おもいでとなり得るのである。(原文ママ)(「作歌四十年」斎藤茂吉)

 

現実の看方が一転化しようとした傾向を示し(中略)現実感の生々としていないのは、仏典辺りに流れている、「澄朗」の感を欲したからではなかったろうかと思う。{斎藤茂吉集巻末の記)

佐太郎の評

焚火の色彩に重点を置いて「いろの寂しさ」といっている。現れているところは「澄み透る」炎の色であって、昼の強い日光の差している海の渚にその炎が立っているのが象徴的である。現実の炎の色を「寂しさ」として受け取ったのがひとつの発見である。「まかがよふ」の「ま」は接頭語であって、「耀ふ」という意である。意味よりも恩寵によって枕詞格に使われている。それから、海ということをいわないで「昼の渚」とだけいって、そして結句を「寂しさ」と名詞で止めている。直線的で重厚な声調である。このあたりの作者の志向というものがうかがえるだろう。            「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

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