永井ふさ子は、斎藤茂吉と交際をしていた女性です。今でいうのなら、婚外恋愛の不倫という関係でしたが、二人の恋愛は、斎藤茂吉の生涯と作品に大きな影響を残しました。
また、二人の間での短歌のやりとりも素晴らしいものがあり、これは、永井ふさ子氏がたいへんに優れた歌の詠み手であったためです
この記事では、永井ふさ子の歌を彼らの恋愛の流れと共にご紹介します。
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永井ふさ子の短歌
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永井ふさ子と斎藤茂吉の交際のきっかけは、斎藤茂吉がふさ子の短歌の指導を引き受けたからでした。
そこから、二人は間柄を深めていきます。今でいえば婚外恋愛となるわけですが、その恋愛は斎藤茂吉の短歌にも大きな影響を与えました。
また、永井ふさ子も思いのたけを歌に込めた短歌をたくさん残しています。
斎藤茂吉と離れてあることの苦しみ
永井ふさ子の歌集「あんずの花」より。
斎藤茂吉との交際の最初の頃の短歌です。
寒き夜の小床のなかにこほしかるふみをいだくとひとに知らゆな
ただひとりちまたぢゆけどよりそひてふたりしゆくとおもふことあり
へだたりてありとはいへど旅(たび)行かす君としきけばましてかなしき
ぬば玉の雲はみだれて迫るごとし寒寒としておのれなげかゆ
恋ひ古布留古許呂都可礼亦(こふるこころつかれて)いねたらしこの朝明の身に力なし
人ごころ険しきなかに一人なる君をばおきて思ひ堪えめや
はがき二枚短冊一葉松風のおときくときは人恋ひをれり
離り住むその折りふしに恋しけむ露葉となりしあんずの老木
しかすがにをみな心はひとつにて悲しきときは悲しき夢を見る
万葉仮名の茂吉との相聞
下は、万葉仮名で書かれたもの(一部重複)を、相聞ゆえふさ子の歌だけではわからないので、これは茂吉と両方をあげます。
まずは、茂吉の詠んだもの。
おもよせてひとるのいきをいきづきしかなしきいもがありありとみゆ
くちびるのあかきがなかにいりてゆくうしのちちさへあなねたましも
こひしさのはげしきよははあまぐもをいとびわたりてくちすはましを
ももながにこやせるきみがしらたまのはだへにふれむかうのけむりはや
ふさ子の詠んだもの
かなしさをうつたふるともやすらひてわれによれとふきみならなくに
わがくちもちてすはましものをさよどこにわがいきづきのくるしきまでに
かさなれるおもみかあらぬさよどこのふすまをいだきてこひしきものを
ふじなみのまつはりにつつきみとわれとしとどなりけるはだへかなしも
茂吉の送ってくる言葉に倣うところはあっても、ふさ子の歌は情熱的で、驚かされます。
また、一首目は「われによれとふきみならなくに」つまり「私が悲しいと訴えようとも自分のところへ来いという君ではないのに」と、茂吉への望みも書いて送っているところも、率直でもあります。
二首目、息の苦しくなるまであなたに口づけしたい。三首目、ふたり重なったときの重みには及ばないが、寝床の布団を抱いて恋しい。
そして、藤の蔓の絡み合うようにあなたと私とが重なり合ってしとどに濡れるような互いの肌が恋しい。
現代語訳にすると生々しくなってしまうためいたしかたないものの、本当はそのまま万葉仮名で鑑賞するのも良いと思われます。
斎藤茂吉がほめたふさ子の短歌
茂吉が書簡中で「佳作」とほめた歌は、上と重なるものの
しかすがにをみな心はひとつにて悲しきときは悲しき夢見る
(そうはいっても女の私の心はひとつであって悲しいときには悲しい夢を見るのです)
いくばくの幸をたのまむ現身(うつそみ)のひとの翳さすわが生涯に
(いくらかの幸せを恃むその方が私の生涯に影を差すのです)
という茂吉にとっては耳が痛いものなのですが、茂吉はその出来栄えを褒めてもいます。
そして、永井という人は、歌を初めてそれほど経っておらず、若干25、6歳でこのように詠めるのですから、大変に優れた人であったといえるのです。
斎藤茂吉の歌集の題名「寒雲」を決めた短歌
茂吉が歌集の題名「寒雲」を決めたきっかけになった歌を含む一連。
遠国に雪かも降らむこの朝け冬雷(ふゆいかづち)はとどろきにけり
伊豆の海より山にむかひてたつ虹の中空にうすれ現(うつ)しけなくに
ここにしてなほあるわれや空をゆく秋雲はやも光寒けく
日を経つつ小さくなりゆく柘榴の実部屋より鉢を出すこともなし
霜白き草野の中を流れ来る川の上には靄だちにけり
旅来つつわが見下ろせる深谿に黯々として草焼けしあと
蜜雲(あきつくも)吹きはなれたる空あひにたまゆら見えて消ゆる星あり
夏すでにすぎし夜闇のたまゆらを揺曳(ゆ)れつつもとな蛍のひかり
念ひ来しこの青渕よやすらけく寄らしむがごとたぢろぐがごと
茂吉が「寒雲」を思いついたのは、「ここにしてなほあるわれや空をゆく秋雲はやも光寒けく」の歌からだそうです。
5首目「霜白き草野の中を流れ来る川の上には靄だちにけり」は、「寒雲」の中に茂吉の歌として混入し、再版以後取り除かれたものです。
茂吉がその出来栄えを喜び、みずからの手帳に書きとめて自作と勘違いしたというくらい、茂吉に倣い、そして優れた歌であるということです。
永井ふさ子の苦しみ
汽車の音とどろきすぎてゆくときの遠くはるけき思ひきざすも
生まれこしえにしおもへばただならぬものぞと独り抗ひたるも
きはまりて悲しき思ひ今はなし萌ゆらむとするもののかなしさ
夜の明くるひととき水のごとくにてこころ寄り処はひと知るや否
いくばくの幸をたのまむ現身(うつそみ)のひとの翳さすわが生涯に
邂逅(わくらば)にいたりしいまの現かはあんずの霜葉土に散りしく
あまりにも絶望的な歌に心が痛む思いがします。
そしてふさ子はこのあと作歌から遠ざかってしまいます。
永井ふさ子の母の挽歌
その26年後、ふさ子は苦難を共にした母を亡くします。
父親の死後は、長男が永井家の跡をとったのですが、ふさ子の母は後妻なので、長男は実子ではないため、そこに住むこともかなわなかったようです。
姉の住まいの方に母と二人して居を移した先での逝去でした。
その母の挽歌。
楠の木は新芽(にひめ)にかはる頃ほひを生命迫りし母に添ひゆく
蠟のごと冷えゆく母の手をとりて添ひ臥すひと夜明けにけるかも
母の御霊いま去りゆくや薄明の空の蒼さの果てしもしらに
他に身寄りのないふさ子は、自分が悲しませたであろう母を看取るに強い心の動きを覚え、その思いを遠ざかっていた短歌に再び託したのでした。
斎藤茂吉ゆかりの地を訪ねた折の歌
それからさらに9年後昭和49年に、真壁仁氏の招きで茂吉の郷里山形の、茂吉ゆかりの宝泉寺、生家、茂吉記念館、蔵王山などを訪ねた折の歌が残されています。
「宝泉寺墓参」のタイトルの下の歌です。
白萩の咲きしづまれるみ庭にも日月(ひつき)の運(めぐ)り留まらなくに
過ぎにけるひとつ歎きもおきつきになに愬(うつた)えむ淡き秋の日
遺されし背広の前に息をのむその腕に胸に生々し甦るもの
荒神岳ののぼり路にしてあららぎの朱実を食めば亡き人おもほゆ
ひとひらの夕茜雲流らへば最上の川の終のはなやぎ
うつそみの君と相寄るごとくにし聴禽書屋に歩みを運ぶ
もの恋(こほ)しくわれの仰ぎし桂の木巣ごもりゐしは何鳥(なにとり)ならむ
長い歌のブランクを感じさせない歌の数々。
茂吉のゆかりの品々や土地を見て、こみ上げる思いを再び歌に詠んだのでした。
最後の作歌昭和61年
最後の歌というものも残されており、やはり、茂吉への思いが回想されています。
哀れなる結論をもついにしへのクレオパトラもかく匂ひけめ
わが里の城山に啼く夜鳥(よるどり)を君詠みてより五十年経し
ふさ子にとってみれば、短歌はそのまま茂吉の回想につながることであったでしょう。
昭和13年作の永井ふさ子の短歌
ここで、前に戻って、永井ふさ子の昭和13年作の歌をあげます。
後頭より額(ひたひ)いとけなく遺伝せるがわりなきときにおもかげにたつ
汝が面にそそぐ泪よいとけなき心に沁みて生ひたちゆかむ
生ひたちの影をしすててはろばろと天こそ翔けれ汝が空を
あめつちに寄せつつあはれ庇護ありて生ひたちゆかむものならなくに
これは、おそらく”忘れがたみ”を詠んだのではないかと推測されます。
おそらくふさ子が作歌をやめてしまった、または茂吉との別離に至ったのも、あるいはそのためであったのかもしれません。
永井ふさ子氏は晩年になって、歌集を出すことに同意、斎藤茂吉の研究家、藤岡武雄氏の編纂で「あんずの花」が編まれました。
「ありし日の如くにあんず花咲けりみ魂帰らむこの春の雨」は、父上の逝去に際して詠まれた歌で、これよりタイトルが採られたそうです。
この歌集を永井氏は残念ながら、生前に手にすることはなかったとのことですが、これらの歌を通じて、永井氏の”声”を耳にする思いです。