めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞です。このページは現代語訳付きの方です。
『赤光』一覧は >斎藤茂吉『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞 にあります。
「死にたまふ母」の全部の短歌は別ページ「死にたまふ母」全59首の方にあります。
※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
スポンサーリンク
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり
読み:めんどりら すなあびいたれ ひっそりと かみそりとぎは すぎゆきにけり
現代語訳
めん鶏は砂を浴びていた。その庭をひっそりと剃刀研ぎ師が通り過ぎて行ったのだよ
出典
『赤光』大正2年 10 七月二十三日
歌の語句
居たれ・・・「たれ」は已然形
剃刀研人・・・各家庭を訪ねて刃物を研いでは料金をもらっていく職の人で、作者の造語と思われる
表現技法
2句切れ 已然形止め
已然形止めは茂吉独特の用法
「めんどり」「ひっそり」「かみそり」「にけり」のラ行の音を含む類似の音型の連続に注意。
3句の「ひつそりと」の促音は一首全体のアクセントをなす。
解釈と鑑賞
斎藤茂吉の『赤光』には奇妙な感覚を伴う作品がいくつか見られるが、この歌もその一つ。
誰もいない無人の庭に、砂浴びをする鶏だけがクローズアップされる。
そして、その横を剃刀研ぎが通り過ぎて行ったというだけの情景なのだが、なぜこの情景が不気味なまでに奇妙なのだろうか。
ひとつには、その理由は「居たれ」の不自然な茂吉独特の用法にあると思われる。
斎藤茂吉の已然形止め
「居たれ」の「たれ」は茂吉の已然形止めと呼びならわされて論じられており、文法的には誤りであると言えるが、おそらくは余韻を残すために音の点から敢えて用いたものと思われる。
品田悦一氏の「已然形露出」解説
品田悦一氏は、これを「已然形露出」と呼び、下のように解説している。
(已然形露出は)万葉集には四千二百余首中にたった一例しかないのに対して、『赤光』では八百三十四首に三七首と多用されており、その珍奇な措辞や不自然な語法は、当たり前の物事を当たり前でなく感じさせるための仕掛けに他ならない。ありふれた日常の一齣が異様な情景に見えるのは、そのような茂吉独特の語法の裏打ちがなされたためである。
この歌の奇妙さは、ほぼその已然形止めに理由があると言ってもいい。
品田氏の指摘だと、最初から文法的な誤りなどではなくて、意識をして用いている茂吉独特の用法でありそうだ。
無関係な二つの事物の対比
もう一つは、二つの事物の対比をさせる手法で、「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花赤く散りゐたりけり」もほぼ同じ構成。
「たたかひは」も難解な歌とされている。上下の脈絡がありそうでなく、おそらく、無関係であるために抽象画のような突飛な印象を受けるのだとも思われる。
「めんどり」と「剃刀研人」は、双方がただその空間に居合わせたというだけで、お互いの間には何の関連もない。
短歌というのは、そもそもが一つの意味を一首全部で構成するようになっているので、その無関係さが奇妙な印象を招くのだろう。
「り」音の共通項
そして、もっと興味深いことには、「めんどり」と「剃刀研人」の間には、「どり」と「そり」のri音の共通項がある。
なので、音韻上はそっくりなものがありながら、互いの間に何の接点もないというアンビバレンスが、望遠鏡をさかさまからのぞいたような錯視的な感覚を読む側に起こさせる。
めんどりは、無邪気に砂浴びをしているが、めんどりに「そっくり」な剃刀研人は、なぜ「ひっそりと」庭を横切るのだろうか。
家の人に声をかけて仕事をもらう職業の人が「ひつそりと」庭を通るには、何らかの意図があるはずなのだが、この歌はそれを示しておらず、逆に何もないままに終わる。
剃刀の刃の銀色のまがまがしさが脳裏に瞬時に過るだけで、砂ぼこりの向うには、何もなかったように、夏の日の光が照り続けているだけなのだ。
佐太郎が下に「深い生の倦怠」というのも、この感覚に通じるものがあると思われる。
斎藤茂吉の自註
真夏の日中に家にいる時の出来事を、沈黙のうちに、その気配だけで詠んだものだということが、斎藤茂吉の自解からわかる。
めん鶏どもが砂を浴びて居る炎天の日中に、剃刀研ぎがながく声をひいて振れて来た。その声に心を留めていると、私のいるところの部屋の前はもう黙って通り過ぎてしまった。それが足駄の音でわかる。炎天の日盛りはそういう沈黙の領するというようなところもあった。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)
佐藤佐太郎の解説
佐藤佐太郎は、茂吉の言う、白昼の領する沈黙を主題としてあげてその「瞬間」」について下のように。
砂を浴びる鶏と剃刀研ぎの気配のなかに白昼の領する沈黙の意味を感じ取って、その不気味なような瞬間を永遠のものとしている。深い生の倦怠をのぞき見ているような歌である。
「めん鶏」でも「ひっそりと」でも、かけがえのない一つの感情を託した語であり、「ひつそりと」など今日から見ればやや平俗であるが、平俗なものを苦心して発掘した功績は今日でも光っている。(「茂吉秀歌」佐藤佐太郎)
「り」の反復 品田悦一解説
なお、品田悦一氏はこの歌の音韻について、下のように解説する。
「めんどり」の/ori/が下の「ひつそり」を呼び出す関係も見落とせない。「ひつそりと」は、構文上は「行き過ぎにけり」の修飾句であり、上二句とは意味的に直結しないのだが、それでいて、「同時に鶏の動きに示される深い沈黙の世界をも暗示している」(本林七四)ように感じられるのは、第一句と第三句に声調上の焦点があって、しかも両者が音韻的に同調しているからだと思われる。「異形の短歌」