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いめのごとき薄き雲らも或る時は紅葉の紅き山にいさよふ 斎藤茂吉

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いめのごとき薄き雲らも或る時は紅葉の紅き山にいさよふ

斎藤茂吉『暁紅』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。

このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『暁紅』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

斎藤茂吉がどんな歌人かは、斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」 をご覧ください。

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いめのごとき薄き雲らも或る時は紅葉の紅き山にいさよふ

読み:いめのごとき うすきくもらも あるときは もみじのあかき やまにいさよう

歌の意味と現代語訳

夢のようにおぼろな薄い雲も時には赤く色づくもみじの山にとどまっている

歌集 出典

歌集『暁紅』昭和11年

歌の語句

  • いめ…「夢」に同じ
  • 雲ら…「ら」は複数の「ら」
  • いさよう…「いざよう」と同じ

辞書の意味

いざよう -- 1 進もうとしてもなかなか進めない。躊躇(ちゅうちょ)する。ためらう。2 進まないでとまりがちになる。停滞する。とどこおる。

表現技法

  • 句切れなし
  • 「いめ」は上代語

 

鑑賞と解釈

木曽に旅行した折の歌。『斎藤茂吉歌集』『茂吉秀歌』他のいずれにも取り上げられる秀歌のひとつ。自註では王滝での歌との説明がある。

山の上にたなびいている薄い雲が擬人化した表現で、まるで意思があるものであるかのようなニュアンスで、主語となっている。

その雲が紅葉のある近くにあって、流れて行ってしまわずにとどまっている。それが、まるで、雲が好んで紅葉の近くにあるかのようにも読める。

そのような風景は偶然に生じるものなのだが、「或る時は」「雲ら」「いさよふ」の組み合わせによって、偶然とは違う意味が与えられている。

「いめ」について

「いめ」は夢と同義の上代語で、ある種の雰囲気を醸し出す。

塚本邦雄によると

奈良時代の言葉で、その古拙音韻が「夢」の持つ甘美な現蔵王の艶消しないし減殺作用に興って力があるのだ

 

「雲ら」の「ら」

「雲ら」の「ら」は、雲が複数あるということだが、万葉集では「ら」は愛称としても使われており、擬人法的な用法と言える。

 

『作歌四十年』より斎藤茂吉の自註

これは王滝出の歌で『いめのごとき』もこの一首ではどうにか落ち着くとおもう。『雲ら』の『ら』もおかしいようだが、その時はおかしいと思わず使った。(『作歌四十年』)

佐藤佐太郎『茂吉秀歌』他の評

未発表ということもあって、歌は見たところを写すに灸で、一首一首の密度がやや希薄かもしれないが、さすがにどれも自在である。

『王瀧』一連の中にある一首だが日本画の境地のように美しい。高山だから雲が紅い紅葉に触れて動く、その淡い雲を「いめ(夢)のごとき」といったのが一語に捉えたという感じのする表現である。同じように「或る時は」といったのもよい。

「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

参考
このあしたくれなゐ深くいろづける山の膚(はだへ)に雲触りゆくも

わがまえにもみぢせる山夢のごとただよう雲の触りてゆくやま

しぐれ降るなかに立てれば峡(かひ)にして瀬の合ふ音はさびしかえりけり

しげり立つ枝をとほして下谿(しただに)に川の瀬々なる浪うごく見ゆ




-暁紅

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