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斎藤茂吉とアララギ リアリズムを超える詩魂のひらめき

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斎藤茂吉はアララギ派の歌人です。

しかし、その短歌の作風は、単にアララギ派の枠内にはとどまらないことも指摘されています。

斎藤茂吉のアララギとの関わりと、短歌の作風についてまとめます。

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斎藤茂吉とアララギ

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斎藤茂吉の短歌は、短歌結社であり短歌誌である『アララギ』とアララギ派を母体として生まれました。

またそれ以上に、アララギの作風であるリアリズムや「写生」が斎藤茂吉の短歌を理解する際に欠かせないものとなっています。

斎藤茂吉とアララギの関わり、さらに、作品とアララギの作風との関わりを既存の研究者の指摘を元に追ってみます。

斎藤茂吉のアララギ入門

斎藤茂吉が、短歌結社『アララギ』に入門したのは、アララギ刊行後ということになりますが、その時はまだ「アララギ」はなく、「馬酔木(あしび)」という冊子名でした。

その時の歌の会の名称は、正岡子規の住んでいた地名を取って、根岸短歌会といい、主催者が伊藤左千夫です。

その伊藤左千夫に、斎藤茂吉が、入門をしたのが、1906年のことです。

伊藤左千夫とは最初、短歌に関する質問の手紙のやりとりをして、その時に書き送った歌が、同年2月『馬酔木』に5首掲載され、それを機に3月、初めて伊藤左千夫を訪ねて入門しました。

その頃は、アララギ派ではなくて、その前身の根岸派というのが通例の呼び名ですが、その後、短歌誌の名前が『アララギ』となり、そこから『アララギ』に歌を投稿する歌人は、アララギ派の歌人ということになります。

アララギの編集発行と経営

斎藤茂吉は最初の歌集『赤光』を刊行し、たいへんな評判となりましたが、伊藤左千夫が急逝、その後を継いで、古泉千樫に続き、島木赤彦がアララギを率いることとなります。

しかし、その島木赤彦も胃がん発覚後、2か月で亡くなってしまい、1926年、アララギの経営を多忙な斎藤茂吉が引き受けることとなりました。

1930年に土屋文明に引継ぐまでは、編集発行人を斎藤茂吉が担っており、選歌はもちろんのこと、アララギの歌人メンバーとして、本誌を支えていたのです。

上記の通り、言うまでもなく、斎藤茂吉は、アララギ派の歌人であり、アララギの理念である正岡子規の「写生」を論じています。

また、「写生」を独自に高めた「実相観入」という斎藤茂吉の理念をも提唱しました。

 

アララギ派にとどまらない斎藤茂吉

斎藤茂吉はまぎれもなく、アララギ派の歌人であり、アララギ派の理念である「写生」と写実主義を踏襲しているのは間違いありませんが、茂吉の短歌の幅は、それにはとどまらないという指摘も述べられています。

斎藤茂吉の研究家である本林勝夫氏は

『赤光』『あらたま』以来、別格的な存在というかとにかく赤彦流のアララギ歌風の枠をはみ出た、近代の短歌そのものを代表する歌人という印象が強い。―「茂吉と明星派」

として、斎藤茂吉の独自の立ち位置を述べています。

あれほどアララギ派の写生を説き、その擁護のために度重なる論争を交わしながら、作品となるとそれはあくまでも斎藤茂吉の歌であり、アララギ歌人を意識させるところが意外に薄かったように思う。(同)

そして、そのアララギ流を意識させないところが、アララギ派や短歌を超えて、斎藤茂吉の短歌が一般に好まれる要因となったというのです。

芥川龍之介の『赤光』評

斎藤茂吉の歌は、アララギ派だから好まれたのではないことは、例えば芥川龍之介の熱烈な賛辞を見れば明白です。

「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顕出した。爾来(じらい)僕は茂吉と共におたまじゃくしの命を愛し、浅茅(あさじ)の原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の静脈を愛した。

本林氏は、対外的な茂吉の評かに「時に現実を超えた詩魂のひらめきを見せ、流派を意識させないほどの魅力を発揮」したと指摘しています。

明星派の影響とアララギリアリズム

 

「現実を超えた」というのは、それが既に「リアリズム」の枠をはみ出ているという意味です。

また、「流派を意識させない」その点にも、本林氏は当時アララギとは対立していた、明星派の影響を推測しています。

つまり、茂吉の歌には終生いわゆるアララギリアリズムに収まりきれないところがあり、その収まりきれないところに明星派の新人と相通じるものがあったのではないだろうか。(同)

斎藤茂吉の「写生」の技法

さらに興味深い点は、「明星の歌から学んだものが沈殿し吸収されていた」としながらも、茂吉の歌をアララギにとどめたものは、やはり「写生」という技法でした。

ただ茂吉は生来の奔騰する主観の動きや、連想の飛躍を写生の枠によって抑制した。(同)

むしろ「写生」を捨てなかったことによって、茂吉の独自の歌境が生まれたと言えます。

20世紀初めの近代文学の影響

同様のことを塚本邦雄氏は、

明治末年、すなわち20世紀初頭は、真に日本のルネサンス期であった。(中略)作者の朴訥極まる自解の弁や歌論の文言からは、熱気を帯びた当時の文壇復興から爛熟に至る機運、雰囲気はほとんど窺い得ぬ。 だが、作品は決して偽らない。

として、これに続く部分で他派の影響を示唆しています。

言ってみれば、正岡子規の短歌革新にはとどまらず、もっと大きな文学のうねりの単位の中で、斎藤茂吉をとらえているのです。

アララギ派以外の歌人との交友

これは本林氏も、斎藤茂吉と交流があった人物として、吉井勇、北原白秋、木下杢太郎など「アララギでもこうした交友関係を持ったのは茂吉一人と言ってよく、他は『交友』という程度までに至っていない」と説明しています。

特に『あらたま』の三崎に取材した短歌は、北原白秋に手紙を出したことがきっかけで生まれています。

明星派とアララギ派

さらに、上記三者を「明星派の系譜につながる人々」として、明星派とアララギ、そのクロスするところに、『赤光』と『あらたま』があったと結論付けているのも興味深い点です。

同時にその文学的交友を可能にしたものがあったとすれば、歌人としての茂吉の資質そのものの振幅の広さ、あるいは天才的な言語感覚が強烈な無力を生み、一種の共鳴現象を起こしたこともあったに違いない。そうでなければ子規に始まる写実派の一新進が才気に満ちた彼らの注目を浴びるはずがないだろう。

写生をはみ出す「異様な写生術」

斎藤茂吉の短歌の詳細な分析と解説を行う品田悦一氏の本の見出し文は

斎藤茂吉の短歌は素朴なリアリズムではけっして理解できない、その本質は、大胆な造語、文法からの逸脱、日常がそのまま非日常と化してしまう異様な写生術にこそある。

本人が「写生」といい、写生に根差す「実相観入」であるという、そのため、斎藤茂吉の短歌は、「写生」であり、「アララギリアリズム」の写実主義の短歌であると一面では言われます。

しかし、そもそも「写生」というコンセプト自体が、けして明確に定義されたものではありません。

斎藤茂吉自身がいう「写生」は、従来のアララギの写生と等しいものではないのではないか。あえて、同じ「写生」でひとくくりにしようとするために「異様な写生術」としか言いようのないものとなってしまうのでしょう。

リアリズムを超える写生や、写実があるとすれば、それは大いなる矛盾です。

斎藤茂吉が子規の用語である「写生」を用いたところに無理があると言えますが、茂吉自身は、「ある時期から空想を排して、事実に即く道を選び、この転身こそが自分を大成させた」と語っていたといいます。(『異形の短歌』)

写生という技法そのものではなく、それによってなされた抑制が、初期には突飛でもあった斎藤茂吉の短歌を普遍にとどめ、あり余る情念は言葉をよりいっそう研ぎ澄ます方に向かったとも思われるのです。

斎藤茂吉関連の本

文庫本の斎藤茂吉の歌集。

斎藤茂吉について詳しくお知りになりたい方は、品田悦一先生の本をおすすめします。

品田悦一先生による斎藤茂吉の短歌の細かい解析については、こちらの本がすぐれています。
上級者向け。

各歌集の解説は、佐藤佐太郎の新書は絶版。他に、塚本邦雄のものなら手に入ります。

おもしろく読めますが、こちらもやや上級者向きです。




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