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実相観入とは 斎藤茂吉の短歌理念の解説

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「実相観入」は斎藤茂吉が自らの短歌の理念として説明している言葉です。

なかなかわかりにくいとされる「実相観入」というのはどのようなものか、斎藤茂吉と、評論の言葉から調べたことをお伝えします。

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実相観入とは

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斎藤茂吉の短歌の理念「実相観入」とは何か、詳しく記していきます。

「実相観入」は斎藤茂吉が自らの短歌の理念として説明している言葉で、斎藤茂吉自身は、「実相観入という熟語を造って自分の歌論に役立たしめている」と説明しています。

つまり、この言葉は、斎藤茂吉が考えた茂吉特有の造語です。したがって、茂吉の短歌を語る時に使われる用語であって、他の歌人や短歌全般に使われる言葉ではありません。

ちなみに、アララギ系歌人の用いる「写生」というのは、それよりももっと広く、アララギ系歌人全体の用いる短歌の技法であり、理念となっています。

提唱したのは正岡子規ですが、正岡子規以外の歌人も一般の投稿者も写生を学びます。

斎藤茂吉を語る時に「写生と実相観入」と並置されることもありますが、「写生」と後者は、その点で大きな違いがあるといえます。

斎藤茂吉が語る実相観入の語源

斎藤茂吉自身は、これを「実相」と「観入」に分けた上で、下のように解説しています。

「実相という語は、仏典から出」た語であると説明、一方、「観入」の方は、「この熟語は私が勝手に作った」としています。

その上で、

「観入という語は、ドイツの美学や詩論などにある”Anschaung” という語、他に、”Hineinschauen”をあげ、「何かそういうところから暗示を得て、私は観入という熟語を造ったのであった」―『観入といふ語に就いて』

と説明。

もっとも、斎藤茂吉のこの小文は「観入」の語源についてであって、「実相観入が何か」を具体的に述べているものではありません。

以上は『童馬漫語』の『観入といふ語に就いて』の項に書かれた解説です。

 

斎藤茂吉の実相観入の定義

茂吉の言葉で、実相観入について端的に述べたものは、同じく歌論の「短歌に於ける写生の説」の方にあります。

「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。」(大正9年)

 

「自然・自己一元の生」

つまり、実相観入というのは、写生に伴う便宜上の技法の一つということになりますが、その「自然・自己一元の生」というのは、「自然と人間を対峙した存在として捉えるのではなく、自然と自分は別なものではなく、自然の中に自己があるとする」というのが要旨です。

その「自然」についても、もう少し掘り下げられた考えがあり、説明には和辻哲郎の次の文章が引用されています。

「ここに用ひる自然は人生と対立せしめた意味の、或は精神・文化などに対立せしめた意味の哲学的用語ではない。むしろ生と同義にさへ解せらる所の(ロダンが好んで用ふる所の)人生自然全体を包括した、我々の対象の世界の名である。(我々の省察の対象となる限り我々自身も含んでゐる)それは吾々の感覚に訴へる総ての要素を含むと共に、またその奥に活躍してゐる生そのものを含んでゐる。」

 

さらに、写生には、「単に対象を客観的に写しとるだけではなく、主観的に対象の本質を深く探り出す態度や姿勢が求められる。写生とは見たものをみたままに書くのではない」と述べられます。

「写生」を提唱したのは、正岡子規ですが、この言葉についても、茂吉の考えた「写生」の解釈が加味されているといえます。

これについては、久松潜一の記した説明が参考になります。

写生詩と抒情詩は異なっているようですが、根本においては共通するものがあります。子規の説く写生では、絵画のスケッチのように、自然を客観的に写すのが写生であったのですが、斎藤茂吉氏の『短歌写生の説』では生命を写すことと解し、実相観入の歌であるといっています。すなわち、心情を率直に、ありのままに表わすことは写生となってきます。― 『万葉集入門』

 

写生と抒情

上の文章では、写生の定義よりも、むしろ下線の部分です。

「写生は抒情を表す手段」といったアララギ派歌人の言葉を覚えていますが、この場合の写生は、客観的な写生とは違うものです。

 

実相観入の定義

辞典での定義は、茂吉本人の言うよりわかりやすくまとめてあります。

表面的な写生にとどまらないで、人生、自然全体を包括した世界に徹するのが短歌写生の真髄であるとする―日本国語大辞典

他にも

表面的な写生にとどまらず、対象に自己を投入して、自己と対象とが一つになった世界を具象的に写そうとするもの。―大辞泉

という記載があります。

「表面的な写生にとどまらない」というのは、上の両者共通した見解ながら、「人生、自然全体を包括した世界に徹する」というのは、哲学的でいささか実作の点からはわかりにくいと言えます。

大辞泉の「具象的に」というのは、やはり「写生」が基本にあることもわかります。

実相観入というのは、あくまで歌における自然の描写に現れて来る短歌の特徴といえます。

実際に斎藤茂吉の短歌から「実相観入」がどのように現れているか、意識して読むと感得できるものが見つかると思います。




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