春なればひかり流れてうらがなし今は野のべに蟆子も生れしか
斎藤茂吉の代表作短歌集『赤光』の有名な連作、「死にたまふ母」の歌の現代語訳と解説、観賞を記します。
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斎藤茂吉の記事案内
『赤光』の歌一覧は、斎藤茂吉『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞にあります。
「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の語の注解と解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『赤光』の歌の詳しい解説と鑑賞があります。
※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列していますので、合わせてご覧ください。
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春なればひかり流れてうらがなし今は野のべに蟆子も生れしか
現代語での読み:はるなれば ひかりながれて うらがなし いまはぬのべに ぶともあれしか
歌の意味と現代語訳
春であるから外は光が流れてうら悲しい。今ごろは野に蟆子も生まれただろうか
※「死にたまふ母」一覧に戻る
斎藤茂吉「死にたまふ母」全短歌作品 現代語訳付き解説と鑑賞
歌の語句
蟆子…ブユ 蚊に似て血を吸う害虫の一種
春なれば…「ば」は順接確定 「…なので」の意味
うらがなし…「うら」の接頭語と「悲しい」の複合語
野のべ…野のこと 「べ」は「辺」。「…あたり」の意味
生れしか…基本形「生まる」+「し」過去の助動詞「き」の連用形。
「か」は疑問の終助詞
句切れと修辞・表現技法
- 3句切れ
解釈と鑑賞
「死にたまふ母」其の2の8首目の歌。
一首前は「死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな」があり、同じく自然観照の歌。
おそらく母の居る部屋から庭とその先に目をやり、少年時代に遊んだ野辺を見ながら、故郷の「今は」の時節とその変化に思いを馳せる。
作者の心情
母に付き添っていなければならないため、外には出られない。
また、母以外のものをゆっくり懐かしむ時間も心の余裕もないのだが、ふと目に触れる風景や、自然に改めて郷愁をそそられるのだろう。
「生まれしか」というところは、やはり、死にゆく母と生まれるものとの命の対比であろう。
春という万物が息づき、新しい命が生まれ出る季節に、母を看取らなければならない作者の悲痛が背景にある。
「うらがなし」解説
品田悦一氏は、この歌において「うらがなし」を用いた理由として、「春であること、命の輝く季節であること」を理由に挙げている。
この短歌の前後の一連
桑の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪へがたければ母呼びにけり
死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな
春なればひかり流れてうらがなし今は野(ぬ)のべに蟆子(ぶと)も生(あ)れしか
死に近き母が額(ひたひ)を撫(さす)りつつ涙ながれて居たりけるかな
母が目をしまし離(か)れ来て目守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり