たらの芽を摘みつつ行けり山かげの道ほそりつつ寂しく行けり
斎藤茂吉の歌集『赤光』「死にたまふ母」から其の4の短歌に現代語訳付き解説と観賞を記します。
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※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
たらの芽を摘みつつ行けり山かげの道ほそりつつ寂しく行けり
現代語での読み:たらのめを つみつつゆけり やまかげの みちほそりつつ さびしくいけり
作者と出典
斎藤茂吉『赤光』「死にたまふ母」 其の4 12首目の歌
現代語訳
たらの芽を摘みながら山を登って行った 道はだんだん細くなったので寂しくも進んで行ったのだよ
歌の語句
・たらの芽…山菜の一種でたらの木の新芽を食用とする
・行けり…基本形「行く+けり」
・摘みつつ…「つつ」は反復 「…しながら」の意味
「けり」の文法解説
けり
動詞「く(来)」の連用形に動詞「あり」の付いた「きあり」の音変化から動詞・助動詞の連用形に付く。 過去に起こった事柄が、現在にまで継続してきていることを表す。「…してきた」の意味
句切れと表現技法
・2句切れ
・反復
解釈と鑑賞
歌集『赤光』「死にたまふ母」の其4の12首目の歌。
作者茂吉は母の火葬の後、蔵王山の高湯温泉の旅館に滞在して帰京した。
周辺の山を散策する場面に母を亡くしたばかりの心境が反映されている。
初版との違い
なおこの歌は初版では
たらの芽を摘みつついけり寂しさはわれよりほかのものとかはしる
というものであって、下句が大きく改作されている。
初版の下句の意味
「寂しさはわれよりほかのものとかはしる」の意味は、「このさびしさは私だけのものだ。他の誰もわかりようがない」という意味になる。
おそらく中世の和歌に用例を取ったのだろう。
たらの芽を摘む行為
山形出身の作者の幼年期を外から表す言葉に「蔵王の山を父として育った」という表現があるくらい、作者は山に親しんで育ち、山の風景はもとより、自生する植物や動物になじみが深い。
故郷では山菜のたらの芽は春になれば毎年のように自ら採取、必ず食用とされるものであったろう。
たらの芽摘みは山に住まない人もすることだが、作者の場合は、そのような少年期からの行為がほぼ無意識に繰り返されていることに着目するべきだろう。
「行けり」の意味
斎藤茂吉は他の作品でも「行く」の言葉をたびたび独自のニュアンスを持って使用しているといわれる。
この場合の「行く」は山登りや温泉などの目的地に行くという実際的な意味よりも、心理的な意味があるとされる。
斎藤茂吉の「行く」の例
斎藤茂吉の他の「行く」の例をあげる。
墓はらのとほき森よりほろほろと上(のぼ)るけむりに行かむとおもふ
白雲は湧きたつらむか我(われ)ひとり行かむと思ふ山のはざまに
みなし児の心のごとし立ちのぼる白雲の中に行かむとおもふ
蔵王山の場所
一連の歌
はるけくも峽(はざま)のやまに燃ゆる火のくれなゐと我(あ)が母と悲しき
たらの芽を摘みつつ行けり山かげの道ほそりつつ寂しく行けり