斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『ともしび』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
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今日(けふ)の日(ひ)も夕ぐれざまとおもふとき首(かうべ)をたれて我は居(を)りにき
読み:けうのひも ゆうぐれざまと おもうとき こうべをたれて われはおりにき
歌の意味と現代語訳
今日一日も暮れる夕暮れであると思いながら、頭を垂れて私はいたのだった
歌集 出典
「ともしび」大正14年
歌の語句
ゆうぐれざま… 「ざま」は、その動作をする、ちょうどその時の意
をりにき… 「いる」+完了の助動詞「ぬ」+過去の助動詞「き」
表現技法
句切れなし
三句の「とき」と結句「をりにき」に注目
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斎藤茂吉『ともしび』短歌代表作品 解説ページ一覧
鑑賞と解釈
「今日の日も夕ぐれざまとおもふとき首をたれて我は居りにき」
第二歌集『あらたま』にミレーの画からモチーフを取ったものが幾首かあるが、それに似た味わいのある一首。
作者は、ミレーとの関連については言及していないが、「首を垂れて」は、ミレーの「晩鐘」の仕草を思わせる。
佐太郎は、「感謝している岡後悔しているのかわからないが」と述べているが、この時に作者は火災で焼失した病院の再建がうまくいかず、苦悩の日々を過ごしていた。
感謝をささげられるような出来事があったとは思えないが、いよいよ一日が終わりだという時に、頭を深く垂れているその仕草に感謝を思い浮かべても間違いではないだろう。
ミレーの画では、夕暮れに仕事を終えた畑で、実りをもたらす大地に感謝の祈りを捧げる農家の夫婦の姿が描かれていた。
茂吉は苦悩の日々の日の暮れに、一日の労苦から解放されて、わずかな安堵を感じたのかもしれない。
鳥ならば山の巣に無心に帰っていくだけだが、人は、その時にも何かしらの物を思う。
思うことは必ずしも具体的なことではないが、夕暮れに誰しもに起こるある種の感慨を仕草に可視化して表そうとすれば、このような姿態として表されるのかもしれないと思わされる。
なお、この歌を斎藤茂吉自身は『作歌四十年』の自註には入れていない。
佐藤佐太郎の評
今日の日もいよいよ夕暮れだなというときに首を垂れていたというので、作者は感謝しているのか後悔しているのかわからないが、とにかく軽快でない、慎ましい状態が現れている。
作者はどういう場所にいたのか、そういう背景のないのが帰って案じd的で嘆息に聞こえるようなこの苦悩に満ちた自画像を際立たせている。
この歌の上三句も伸びやかでしかも切実な語気である。端的で暗示的な、陰影のある現実の裁断に味わいがある。「茂吉秀歌」佐藤佐太郎
一連の歌
なにがなし心おそれて居(ゐ)たりけり雨にしめれる畳のうへに
Munchen(ミユンヘン)にわが居(を)りしとき夜(よる)ふけて陰(ほと)の白毛(しらげ)を切りて棄(す)てにき
午前二時ごろにてもありつらむ何か清々(すがすが)しき夢を見てゐし
焼あとに迫(せま)りしげれる草むらにきのふもけふも雨は降りつつ
今日(けふ)の日(ひ)も夕ぐれざまとおもふとき首(かうべ)をたれて我は居(を)りにき