広告 生涯

斎藤茂吉と芥川龍之介の深い交流 『赤光』を絶賛

 当サイトは広告を含む場合があります

斎藤茂吉と芥川龍之介は文学者として親交があった他、斎藤茂吉は芥川の主治医でもあり、芥川の逝去後は挽歌を詠んでいます。

斎藤茂吉と芥川龍之介との交流と関係について記します。

スポンサーリンク




斎藤茂吉と芥川龍之介

[toc]

斎藤茂吉と芥川龍之介の交流のきっかけは、芥川龍之介の茂吉の短歌作品に対する深い尊敬の念に始まったと思われます。

芥川が、それを文章に表したところから、斎藤茂吉の名前が文壇にも広く知られるきっかけとなりました。

芥川龍之介が絶賛した斎藤茂吉の短歌

芥川が茂吉の歌集『赤光』を絶賛したことに始まります。

芥川龍之介が、最初に『赤光』を読んだのは、高等学校の学生の時であり、その体験は、芥川によほど鮮烈な印象を残したことがわかります。

斎藤茂吉を論ずるのは手軽に出来る芸当ではない。少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。なぜと云えば斎藤茂吉は僕の心の一角にいつか根を下しているからである。僕は高等学校の生徒だった頃に偶然「赤光」の初版を読んだ。

「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顕出した。爾来(じらい)僕は茂吉と共におたまじゃくしの命を愛し、浅茅(あさじ)の原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の静脈を愛した。(中略)

僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になったのでもない。斎藤茂吉にあけて貰ったのである。

もう今では十数年以前、戸山の原に近い借家の二階に「赤光」の一巻を読まなかったとすれば、僕は未だに耳木菟(みみずく)のように、大いなる詩歌の日の光をかい間見ることさえ出来なかったであろう。―「僻見」よりhttps://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/16033_33773.html

「女の手の甲の静脈を」というのは、茂吉の歌集『あらたま』にある「うらさびしき(をみな)にあひて手の甲の静脈まもる朝のひととき 」のことで、これは、『赤光』のあとの歌集となります。

文壇の大きな話題となった『赤光』ばかりではなく、芥川龍之介が引き続き茂吉の歌集の読者であったことがうかがわれるのです。

長崎旅行でも斎藤茂吉を訪ねる

斎藤茂吉が当時の文壇に名前を知られるようになったのは、『赤光』の出版後で、それをきっかけに、二人の交流は始まります。

菊池寛が記録

大正8年には、芥川龍之介は、斎藤茂吉の赴任していた現長崎医大に斎藤茂吉を訪ねたことを、同行した菊池寛が記しています。

あくる日は、芥川と二人で、浦上の教會堂を見に行つた。(中略) 歸りに、長崎の醫學専門學校へ行つて斎藤茂吉と會つた。
夜、有名な丸山の遊廓を見に行つた。(後略) ―菊池寛の「長崎への旅」

芥川龍之介の『長崎』

芥川は、『長崎』と題する短い散文詩のようなエッセイに、長崎で見たものを並べます。

路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照ほてるけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。

その中に茂吉のことを

『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂ろちやうの禿げそめた斎藤茂吉。

とのみ、茂吉について書き留めた部分があります。

「禿げそめた」とは、もう少し何か書きようがなかったのかとも思いますが、会ったのは、長崎医学専門学校の中ということでわずかな間でもあったようです。

芥川の書き記した短歌様の部分、『港をよろふ山の若葉に光さし……』、斎藤茂吉で知られる長崎の短歌は「朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし竝みよろふ山」とも類似の部分があり、興味をそそられます。

 

芥川龍之介の斎藤茂吉への尊敬

芥川が、斎藤茂吉をいかに尊敬していたかは、堀辰雄が下のように記していることからもうかがわれます。

漱石、鴎外の兩氏を除けば、芥川さんのもつとも私淑してゐた先輩は、齋藤茂吉氏と志賀直哉氏の二人であるといつてよい。就中、齋藤茂吉氏については、その歌をいかに愛してゐるかを芥川さん自ら「僻見」(全集第五卷)の中で書いてゐる故、僕はここには書翰集の中から數行を引用して見よう。

昭和二年二月二日齋藤茂吉氏に與へた書翰の中に、「先夜来、一月や二月のおん歌をしみじみ拜見、變化の多きに敬服致し候。成程これでは唯今の歌つくりたちに idea の數が乏しと仰せらるる筈と存候。」と書いてある。―https://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/48294_49034.html

・・・

芥川龍之介の主治医であった斎藤茂吉

そして、斎藤茂吉は、芥川龍之介の主治医としても関わるようになります。

斎藤茂吉の26年1月13日の日記には、芥川の診察について

神経衰弱と胃病とがある。いろいろの「内憂外患」とがあると言って弱っていた (原文カタカナ)―https://www.asahi.com/articles/ASP4X76J8P4RUZHB00L.html

と記しています。

つまり、斎藤茂吉が診察をしていたということは、芥川の主治医でもあったわけなのです。

芥川は茂吉処方の睡眠薬で自殺

芥川症状は不眠症であったため、さまざまな療養法を手紙でアドバイスした他にも、臭素加里やアヘンチンキ、ドイツバイエル社製のベロナール(バルビタール)などの睡眠薬を処方しました。

施した。それだけに芥川の睡眠薬自殺は茂吉には大きな衝撃で、日記には、第一報には「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」、通夜からの帰宅後「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」とそれぞれ書かれている。

この時を含めて、睡眠薬等を処方していたとありますが、そのために、後の芥川の自殺には、茂吉は大きな衝撃を受けることになりました。

斎藤茂吉の反応

芥川の自殺の知らせについては、日記に「驚愕倒レンバカリニナリタレドモ」と記し、その後の通夜からの帰宅後は「ソレデモナカナカネムレズ。芥川ノ顔ガ見エテ仕方ナイ」と記しています。

「それでも」と記したのは、その一文前に、斎藤茂吉自身が「ネムリグスリヲノミテネムル。」と記したためで、その睡眠薬をもって、芥川が死ぬとは思ってもみなかったのです。

 

斎藤茂吉の芥川を詠んだ短歌

斎藤茂吉はその後、芥川の死を悼む挽歌をいくつか詠んでいます。

夜ふけてねむり死なむとせし君の心はつひに氷のごとし

壁に来て草かげろふはすがり居り透すきとほりた羽のかなしさ
---『あらたま』

宵やみよりくさかげろふの飛ぶみればすでにひそけき君ししぬばゆ
-- 『白桃』(昭和8年)

 

「草かげろう」については、

それからくさかげろうの青い透きとおる羽は、故人の象徴であるかのように思えるふしもあるので、その実際の草かげろうを写生して置いた。

かげろうの羽もそうですが、それ以上に、はかなく、短い一生が、おのずとかげろうを思わせたのでしょう。

堀辰雄は、先にあげた文章の中で、

齋藤茂吉氏の芥川さんの死をともらふ歌を讀み、そのなかの「壁に来て草かげろふはすがり居りきとほりたるはねのかなしさ」といふ一首に私は云ひやうもなく感動した。

と記しています。

この歌の一連の三首目は、「やうやくに老いづくわれや八月の蒸しくる部屋に生きのこり居り」と、芥川の死と対比して自らの生を詠いながら、一連三首の締めくくりを

帰朝後は相当に親しい交りをしていたので、自然に如是の挽歌が出来た

と芥川との交流の振り返っています。

また、他の歌人の詠んだ歌にも、斎藤茂吉が、芥川の歌を思い出すとして、下のようにも記しています。

香川景樹の歌に、『津の国にありとききつつる芥川まことに清きながれなりけり』といふのがある。僕はいつかこの一首を見付けて直ぐ芥川龍之介さんのことを聯想したのであった。(略)そのうち芥川さんは亡くなられてしまった。さて、この歌をおもひおこして口ずさむと、妙に心を引くものがある。旧派歌人の歌ではあるが、芥川龍之介さんの挽歌に出来たもののやうな気がしてならないこともある。

芥川龍之介の自殺は、斎藤茂吉のみならず、文壇へ大きな衝撃を与えたわけなのですが、個人的な交流もあり、ましてや主治医であった斎藤茂吉は、自らの身に引き付けて詠ったように、折に触れて、芥川の早すぎる逝去を悼んだのです。




-生涯
-

error: Content is protected !!