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斎藤茂吉『あらたま』短歌全作品 テキストのみ解説なし

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大正五年 1夜の雪 2雑歌 3長塚節一周忌 4春泥 5寂土 6折々の歌 7体膚懈怠 8雨蛙 9五月野 10初夏11深夜 12暗緑林 13蠅 14蜩 15折にふれ 16故郷 瀬上 吾妻山 17寒土

1 夜の雪

街かげの原にこほれる夜の雪ふみゆく我の咳ひびきけり
夜ふけてこの原とほること多しこよひは雪もこほりけるかも
原のうへに降りて冴へたる雪を吹く夜かぜの寒さ居るものもなし
さ夜なかと夜はふけにけり冴えこほる雪吹く風の音の寂しさ
こほりたる泥のうへ行くわがあゆみ風のなごりの身にしひびけり
夜の最中すでにすぎたりけたたまし軍鶏の濁ごゑをひとり聞き居り
さむざむと寝むとおもへど一しきり夜のくだかけの長啼くを聴く
夜ふかし寝つかれなくに来しかたのかなしき心よみがへり来も

2 雑歌

三宅坂をわれはくだれり嘶かぬ裸馬(はだかうま)もひとつ寂しくくだる
薬缶(旧字)よりたぎる湯をつぎいくたびも我は飲み居り咽(のど)かわくゆゑに
ひよろ高き外人ひとり時のまに我を追ひ越す口笛ふきつつ
あわただしく夜の廻診をはり来て独り嚏(はなひ)るも寂しくおもふ
冬の日は照り天伝ふひたぶるに坂のぼる黒馬の汗のちるかも
まれまれに衢(ちまた)もとほる目にし染むいかなればかもひとのかなしき
きさらぎの三月(やよひ)にむかふ空きよし銀座つむじに塵たちのぼる
よる遅く家にかげりてひた寒し何か食ひたくおもひてねむる

3 長塚節一周忌

うつうつと眠りにしづみ醒めしときかい細る身の辛痛(せつな)かりけむ
しらぬひの筑紫のはまの夜さむく命かなしとしはぶきにけむ
あつまりて酒は飲むともかなしかる生(いき)のながれを思はざらむや
つくづくと憂にこもる人あらむ此のきさらぎの白梅のはな
君が息たえて筑紫に焼かれしと聞きけむ去年のこよひおもほゆ

4 春泥

きさらぎのちまたの泥におもおもと石灰(いしばい)ぐるま
歩兵隊泥ふみすすむ整歩(はやあし)のつらなめて踏む足なみの音
きさらぎの雪消(ゆきげ)の泥のただよへる街の十字(つむじ)に人つどひけり
あからひく昼の光のさしながら衢の泥に見ゆる足あと
馬ひとつ走りひびきて来るまの墓石店まへに泥はねかへる
市路(いちぢ)には泥をあつむる人をりて腰を延したりわればなげくも
泥ただよふ十字に電車とまれどもしきりて去るに感ずるさびしさ
きさらぎのちまたの泥(どろ)に佇立(たたず)める馬(うま)の両眼はま
たたきにけり

5 寂土

小野の土にかぎろひ立てり真日あかく天づたふこそ寂しかりけれ
うつしみはかなしきものか一つ樹をひたに寂しく思ひけるかも
人ごみのなかに入りつつ暫しくは眼を閉ぢむこのしづかさや
寂しかる命にむかふ土の香の生(しょう)は無しとぞ我は思はなくに
あなあはれ寂しき人ゐ浅草のくらき小路にマッチ擦りたり
現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより降れるこの春雨や
途中に手電車をくだるひしひしと遣やふ方なし懺悔(くやしさ)をもちて
うつつなるほろびの迅(はや)さひとたびは目ざめし鷄(かけ旧)もねむりたるらむ

6 折々の歌

むらむらと練兵場を吹きあげし冬朝風のなごりを見居り
きぞの夜にこほりしままの流泥(ながれどろ)わか昼ゆゑに解けがてぬかも
電車上る坂のまがりにつくづくと立坊(たちんぼ)ならぶ日輪に向きて
うつしみの家居を焼くととどろきて走る炎に家は焼けけり
胸(むな)さやぎ今朝とどまらず水もちて阿片丸(オピュームぐわん)を呑みこみにけり
ふゆさむき瘋癲院の湯あみどに病者ならびて洗はれにけり
霜いたく降れる朝け庭こえてなにか怒れる狂人のこゑ
けふもまた病室に来ていらわかき狂ひをみなにものをこそ言へ
暁にはや近からし目の下(もと)につくづくと狂者のいのち終る
呆(ほ)ゆきてここは生命の果てどころ死(しに)行くをまもる我し寒しも
ことなくていま暮れかかる二月(きさらぎ)の夕べはぬるし蟇(ひき)いでにけり
あまぐもの雷(いかづち)ひくし夜の土にはだらにたまる雪を目守らむ
ひたぶるにいかづち渡る夜空よりしらじらと雪ながれ来にけり
ぬば玉の暗き夜ひかりゆく雷(らい)の音とほそきて雪つもりけり

7 体膚懈怠

ひるながら七日(なぬか)に一日ねむらむと昼の小床につかれつつ居り
ひそまりてけふは眠らむおのづから眠り足らはば起(た)ちてゆかむか
昼床に眼ひらけばあかあかと玻璃戸のそとを日のわたる見ゆ
昼床にほのりほのりとゐる我の出で入る息のおとの幽けさ
わくらはの眠り恋(こほし)とあかねさす昼の小床に目をつむりけり
昼眠りありがたしとて眠らむか聞え来る音もかりそめならず
昼ごもり独りし寐(ぬ)れど悲しもよ夢を視るよもよもの殺すゆめ
昼床に電車くだかけうつし身の笑ふもきこゆ我が昼床に

9 雨蛙

あまがへる啼きこそいづれ照りとほる五月の小野(おぬ)の青きなかより
かいかいと五月青野に鳴きいづる昼蛙こそあはれなりしか
五月野(ぬ)の青きにほひの照るひまや歎けば人ぞ幽かなりける
五月野の草のなみだちしづまりて光照りしがあまがへる鳴く
五月の陽てれる草野にうらがなし青蛙ひとつ鳴きいでにけり
さつき野(の)のくさのひかりに鳴く蛙心がなしく空にひびけり
青がへるひかりのなかになくこゑのひびき徹りて草野かなしき
あをあをと五月の真日の照りかへる草野たまゆら蛙音(ね)に出づ

10 五月野

五月野の浅茅をてらす日のひかり人こそ見えね青がへる鳴く
行きずりに聞くとふものか五月野の青がへるこそかなしかりけれ
さびしさに堪ふるといはばたはやすし命みじかし青がへるのこゑ
昼の野(ぬ)にこもりて鳴ける青蛙ほがらにとほるこゑのさびしさ
青がへる日光のふる昼の野にほがらに鳴けばましてかなしき
くやしさに人なげくとき野の青さあまがへるこそ鳴きやみにけれ
真日すみて天づたふとき五月野の動きて青しかへる音にいづ
命あるものの悲しき真昼間の五月の草に雨蛙鳴く

11 初夏

梅の木かげの乾ける砂に蟻地獄こもるも寂しなつさりにけり
夕疾風(ゆふはやち)けむりをあぐる原とほく車を挽きて兵かへる見ゆ
宵はやく新宿とほり歩き来て蝦蟇のあぶらを買ひて持ちたり
一夜ふりし雨はれにつつ橡の樹の若葉もろなびく朝風ぞふく
ゆふされば相撲勝負の掲示札(ふだ)ひもじくて見る初夏のちまたに
人だかりのなかにさびしく我きたり相撲の勝負まもりつつ居り
夜おそく電車のなかに兵ひとりしづかに居るは何かさびしき
雨あとのいちごの花の幽かにて咲けるを見れば心なごむも

12 深夜

垢づきし瘋癲学に面よせてしましく読めば夜ぞふけにける
煙草のけむり咽に吸ひこみ字書(じしょ)の面(めん)つくづくと見る我をおもへよ
墓原にひびきし銃の音たえて伝統のもとに夜ぞふけにける
階下には女中ねむりぬ階上にわれは書物を片付けて居り
電燈を消せば直くらし蠅ひとつひたぶる飛べる音を聞きける
しんしんと夜は暗し蠅の飛びめぐる音のたえまのしづけさあはれ
夜は暗し寝てをる我の顔のべを飛びて遠そく蠅の寂しさ
汗いでてなほめざめゐる夜は暗し現は深し蠅の飛ぶ音
ひたぶるに暗黒を飛ぶ蠅ひとつ障子にあたる音ぞきこゆる
部屋中の闇を飛ぶ蠅かすかなる戸漏る光にむかひて飛びつ

13 蠅

ひた走る電車のなかを飛ぶ蠅のおとの寂しさしぶくさみだれ
昼過ぎて電車のなかの梅雨いきれ人うつり飛ぶ蠅の大きさ
おほほしくさみだれ降るに坂のぼる電車の玻璃に蠅ともありけり
ひたはしる電車のなかにむらぎもの心は空し蠅のとぶおと
狂院をはやくまかりて我が乗れる午後の電車のひびきてはしる

14 蜩

橡の樹も今くれかかる曇日の七月八日ひぐらしは鳴く
狂院に宿(とま)りに来つつうつうつと汗かきをれば蜩鳴けり
いささかの為事を終へてこころよし夕餉の蕎麦をあつらへにけり
土曜日の宿直(とのゐ)のこころ独りゐて煙草をもはら吸へるひととき
蜩は一ときなけり去年ここに聞きけむがごとこゑのかなしき
卓の下に蚊遣の香(こう)を焚きながら人ねむらせむ処方書きたり
こし方のことをおもひてむらぎもの心騒(さや)げとつひに空しき
ひぐらしはひとつ鳴きしが空も地(つち)も暗くなりつつ二たびは鳴かず

15 折にふれ

苦しさに叫びあげけむ故人(なきひと)の古りたる写真けふ見つるかも 子規忌一首
真夏日のけふをつどへる九人(ここのたり)つつましくして君をおもへり 左千夫忌四首
肉太の君の写真を目守るとき汗はしとどに出でゐたりけり
君が愛でし牛の写真のいろ褪せて久しくなりぬこのはだら牛
アララギは寂しけれども守るもの身に病なしうれしとおぼせ

16 故郷。瀬上。吾妻山

ふる郷(さと)に入らむとしつつあかときの板谷峠にみづをのむかな
みちのくの父にささげむと遥々と薬まもりて我は来にけり
老いたまふ父のかたはらにめざめたり朝蜩のむらがれるこゑ
けふ一日我(わ)をたより来し村びとの病癒ゆがに薬もりたり
うらがなしき朝蝉(あさぜみ)のこゑの透れるをわぎへのさとに聞きにけるかも
ふるさとの蔵の白(しら)かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり
朝じめる瀬上(せのうへ)の道をあるき来てアヤメの花をかなしみにけり
山こえて二夜ねむりし瀬上の合歓花(ねむ)のあはれをこの朝つげむ
霧こむる吾妻やまはらの硫黄湯に門間春雄とこもりゐにけり
あまつかぜ吹きのまにまに山上(さんじやう)の薄なびきて雨はれんとす
五日ふりし雨はるるらし山腹に迫りながるる吾妻のさ霧
現身の声あぐるときたたなはる岩代のかたに山反響(こだま)すも
山がひにおきな一人ゐ山刀(なた)おひて吾妻の山をみちびきのぼる
吾妻峰(あづまね)を狭霧にぬれてのぼるときつがの木立の枯れしを見たり
梅干をふふみて見居り山腹におしてせまれる白雲ぞ疾き
うごきくるさ霧のひまにあしびきの深やま鴉なづみて飛ばず
おきふせる目下(ました)むらやま天つ日の照りてかげろふ時のまを見つ
あづまやまの谿あひくだる硫黄ふく南疾風にむかひてくだる
いましめて峡をめぐれりまながひのあかはだかなる山に陽の照る
くたびれて息づき居ればはるばると硫黄を負ひて馬くだるなり
火口よりとほぞきしときあかあかと鋭き山はあらはれにけり
山をおほひて湧き立つさ霧にわが眼鏡しばしば曇るをぬぐひつつゆく
吾妻山くだりくだりて聞きつるはふもとも森のひぐらしのこゑ
雨激し気に山をくだれり虻が来て我が傘に幾つもひそむなり

17寒土

さけさめて夜半に歩めばけたたたし我を追ひこす電車のともしび
この日ごろ心は寂しい往くみちかへらふ道の風は寒しも
夜おそくひとりし来ればちまた路は氷(ひ)に乾きたりわれのしはぶき
よるふけて火事を報ずるひとひとり黒外套をまとひて行けり
冬さむきちまたの夜はふけにけりひとまれに行くおもき靴音
土ふかくながるる水のこもり音聞すましつつ夜半に立つかも
ふゆの夜は冴えふけにけりちまた路の底ひゆひびく水のさびしさ
さ夜なかに地下水道の音きけば行きとどまらぬさびしさのおと
この夜半にわれにかなしき土のみづつきつめてわれ物思はざらむ
音にぶき太鼓をうちて遠家事をふれゆく人にとほりすがへり
かかる夜にひと怨みむは悲しかり痛き心をひとりまもらむ

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