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斎藤茂吉の青春の地 浅草の短歌・「おひろ」を訪ねて

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斎藤茂吉が短歌に詠んでいる浅草と浅草寺を見てきました。

斎藤茂吉にとって、第二の故郷ともいえる浅草、その浅草ゆかりの短歌を集めてみます。

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斎藤茂吉が少年時代を過ごした浅草

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斎藤茂吉が青山に移る前の住まいは、養父の病院が浅草病院といって、浅草にありました

茂吉がそこに住むようになったのは、明治19年のことで、明治32年には「鳥だにも新たに年をとりぬらん凌雲閣にとんび鳴くなり」(『短歌拾遺』)との歌が残されています。(凌雲閣は浅草寺にある建物)

『赤光』最初の浅草の短歌

『赤光』で見られるものだと

浅草の佛つくりの前来れば少をとめ女まぼしく落日(いりひ)を見るも
(『赤光』明治 38 年「折りに触れ」)

この「佛つくり」とは仏具店のようなところなので、通りに見かけた少女を詠んだものでしょうか。

『赤光』の頃は、茂吉は既に青山に移っており、浅草で過ごした少年時代のことが、その時点で詠まれた歌というのはないものの、浅草は茂吉にとっての初めての都であると同時に、第二の故郷のような場所であったと思われるのです。

 

斎藤茂吉と浅草寺

斎藤茂吉にとっては、寺というのはゆかりの深いもので、生前最後の写真で浅草寺に手を合わせているものがよく知られているように、終生仏教の信仰も持ち続けていたと思います。

それが、日本人に多くみられるようなやや汎神論的な範囲での信仰心であっても、浅草寺のある浅草という場所は、幾重もの意味で、茂吉の心に深いかかわりを持っていた場所となっているのです。

 

浅草寺が詠まれた『赤光』の短歌

浅草の詠まれた歌を時系列に追いますと、もっとも最初の重要なものは、恋人であったと言われる「おひろ」の別れを詠んだ一連です。

「おひろ」一連の中から

かなしみてたどきも知らず浅草の丹塗(にぬり)の堂にわれは来にけり

あな悲し観音堂に癩者ゐてただひたすらに銭欲りにけり

浅草に来てうで卵買ひにけりひたさびしくてわが帰るなる

この時は茂吉は青山の方に住んでいたわけですが、おひろという女性との別れを悲しんで、わざわざ浅草寺を訪れています。

おひろが浅草に住んでいたということからですが、確かな居場所は知らなかったようで、「たどきも知らず」に浅草をさまようだけの作者が描かれます。

「丹塗(にぬり)」とは赤く塗ったお堂、そこに詣でて、そして参道の両脇にある仲見世のようなところで、物乞いを見かけたり、茹で卵を買って帰ったというのです。

悲しい心を慰めるために茂吉が来たいと思ったところが浅草、それも寺だったということは、おひろのゆかりの地というだけでなく、茂吉と浅草とのつながりを思わせるに十分でしょう。

懐かしまれる故郷としての浅草

浅草の三筋町(みすぢまち)なるおもひでもうたかたの如ごとや過ぎゆく光かげの如や(『つゆじも』大 9)

浅草の八木節さへや悲しくて都に百日(ももか)あけくれにけり (『つゆじも』大 10 )

長崎にいるときも、茂吉は浅草の三筋町を思い出します。昭和12年には「三筋町界隈」という浅草の思い出の随筆も描かれています。

二首目は、長崎から帰ってくると「浅草の八木節」さえ、東京に帰ってきたという思いで毎日のように胸がいっぱいになる。

「さえ」となっていますが、これも茂吉が浅草に住んだ少年の頃にも繰り返し耳にしたもので、ノスタルジーをかきたてるものであったに違いありません。

浅草に行きつつゐたる心地にてこの俗謡を一夜たのしむ(『遍歴』大 12 )

東京の妻のおくりし御守護(みまもり)をおしいただきてカバンにしまふ(『遍歴』大 13 )

オーストリアのウィーンに留学した茂吉は、浅草の調べを思い出しながら、まるで「浅草に行ったような心持で」当地の民謡に耳を傾けます。

また、妻が送ってくれた浅草寺のお守りを大切に身につける様子も詠まれています。あるいは茂吉自身が所望したものであったのかもしれません。

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斎藤茂吉 浅草寺詣での歌

これから後になりますと、浅草寺に詣でた折の歌が見られるようになります。

「八月三十日浅草観世音詣」の詞書のある一連。

みちのべの白きひかりの燈(ともしび)に草かげらふは一つ来て居り

浅草の日のくれづれの燈に青き蟲こそ飛びすがりけれ

電燈のひかりにむるる細 (こま)か蟲は隅田川より飛び来つるなり

電燈の光まばゆき玻璃戸には蚊に似たる蟲むれて死につつ

四年(よとせ)まへわれも聞きつつかなしみし八木節音頭すたれ居りたり

眼(まなこ)とぢて吾は乞ひ祈の むありのままにこの生(いき)の身をまもらせたまへ

蟲が音(ね) はしきりに悲し月よみの光あかあかと傾きゆきて (『ともしび』大14年「草蜉蝣」)

 

短命な「草蜉蝣」と自分自身が同一視されており、そのはかない気持ちが「この生(いき)の身をまもらせたまへ」という祈りの源泉であるでしょう。

観音の高きいらかの北がはは雪ははつかに消え残りけり

人だかりのなかにまじはりうつせみの命のゆゑの説法を聴く

浅草のきさらぎ寒きゆふまぐれ石燈籠にねむる鶏(とり)あり

川蒸気久しぶりなるおもひにてあぶらの浮ける水を見て居り

みちのくより稀々に来るわが友と観音堂に雨やどりせり(『ともしび』昭3年)

「浅草をりをり」とのタイトルで、友を連れて浅草寺とその周辺を案内したようです。

浅草の五重の塔

浅草の五重の塔をそばに来てわれの見たるは幾とせぶりか

浅草や吉原かけて寒靄(かんもや)のたなびくころを人むらがりぬ (『石泉』昭 7 )

浅草のみ寺に詣で戦(いくさ)にゆきし兵の家族と行きずりに談(かた)る (『寒雲』昭 12 )

一方で浅草の風俗も詠まれています。

罪ふかきもののごとくに昼ながら浅草寺のにはとりの声

少し前参道とほり浅草の人ごみのなかに時移りゆく

シエパアドも既に常識となりたるか浅草皮店の路地にも居たり

洋傘(かうもり)を持てるドン・キホーテは浅草の江戸館に来て涙をおとす

浅草のみ寺にちかく餅(もちひ)くひし君と千樫(ちかし)とわれとおもほゆ

浅草のみ寺をこめて一ひとめ 目なる平(たひら)なる市街かなと見おろす (『寒雲』昭14)

「君」は伊藤左千夫、千樫は古泉千樫で両方とも早世しています。

晩年の斎藤茂吉と浅草

浅草の観音力もほろびぬと西方の人はおもひたるべし

浅草の晩春となり人力車ひとつ北方へむかひて走る (『つきかげ』昭 23 )

戦争はあったが、外国の人は観音の力も滅びたと思うかもしれないがそうではない。

また、晩春の浅草の光景、今もある人力車が詠まれます。

浅草の観音堂にたどり来てをがむことありわれ自身のため

この現世(げんぜ)清くしなれとをろがむにあらざりけりあヽ菩薩よ (『つきかげ』昭 25 年)

晩年になった茂吉は「世界が清くなれ」というのではなくて、自分のため、老いて体もままならなくなったからこそ、菩薩におすがりする、そういう心持ちをも表しています。

最後の参詣は昭和27年3月、亡くなる一か月前のことでした。生涯を通じて、浅草は茂吉の第二の故郷であったのです。




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