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ここに来てこころいたいたしまなかひに迫れる山に雪つもる見ゆ 「祖母」『あらたま』 斎藤茂吉

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斎藤茂吉『あらたま』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方で、語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『あらたま』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
『あらたま』全作品の筆写は斎藤茂吉『あらたま』短歌全作品にあります。

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ここに来てこころいたいたしまなかひに迫れる山に雪つもる見ゆ


歌の意味と現代語訳

ここに至ってこころが痛々しい。目の前に迫る山に雪が積もっているのが見える

出典
『あらたま』大正4年 13 冬の山「祖母」其の一

歌の語句
ここに来て・・・この地に着いて、の意味だが、心がそこに至って、と気持ちが高まってくる過程を含んで表している
いたいたし・・・痛々しい
まなかひ・・・まなかい、目の前に
見ゆ・・・は現代語の「見える」の意味の語の基本形
対して、「(私が)見る」の場合の基本形は文語でも現代語と同じく「見る」


表現技法
2句切れ
「ここに」「こころ」のコ音。または「まなかひ」「せま」「やま」「見ゆ」のマ行音、「迫れる」「つもる」のル音など、整った音韻にも注意

鑑賞と解釈

祖母が亡くなった知らせに駆けつけてみれば、家の目の前に雪の積もる山が見え、一層心が痛む思いがするという意味の歌。身内の逝去への反応という抽象的なものではなく、実景を添えて、より実感の伝わりやすいものとなっている。
また、この「雪」は単なる雪ではなく、東北の厳しい冬と寒さを表す雪であることを感じたい。

 

「作歌四十年」より作者の解説

眼前に迫る冬山にもう雪が降りはじめたという、恐ろしいまでに厳しい趣である。「心いたいたし」は上句なって、「ものの行とどまらめやも」などと類似の手法であるが、これにはまたこれの特徴が出ている。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)

 

佐太郎の評

「ここに来て」「まなかひに迫れる山」という具体的で確かな要素があるために「雪つもる」山の「いたいたし」さが受け取れるのだが、それにしても、「心いたいたし」という主観は、ぬきさしのならない確かさである。こういう表現はこの作者の傾向であり力量である。  「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

 

一連の歌

13 冬の山「祖母」其の一
おのづからあらはれ迫る冬山にしぐれの雨の降りにけるかも
ものの行(ゆき)とどまらめやも山峡(やまかひ)の杉のたいぼくの寒さのひびき
まなかひにあかはだかなる冬のしぐれに濡れてちかづく吾を
いのちをはりて眼をとぢし祖母(おほはは)の足にかすかなる皹のさびしさ
命たえし祖母(おほば)の頭(かうべ)剃りたまふ父を囲みしうからの目のなみだ
蝋の火のひかりに赤しおほははの棺の上の太刀鞘(ざや)のいろ
朝あけて父のかたはらに食す飯(いひ)ゆ立つ白気(しらいき)も寂しみて食す
さむざむと暁に起き麦飯(むぎいひ)をおしいただきて食ひにけり
ゐろりべにうれへとどまらぬ我がまなこ煙はかかるその渦けむり
あつぶすま堅きをかつぎねむる夜のしばしば覚めてかなしき霜夜は
日の入のあわただしもよ洋燈(らんぷ)つりて心がなしく納豆を食む
土のうへに霜いたく降り露なる玉菜はじけて人音もなし
おほははのつひの葬り火田の畔(くろ)にいとども鳴かぬ霜夜はふり火
終列車のぼりをはりて葬り火をまもる現身のしはぶきのおと
愁へつつ祖母はふる火の渦のしづまり行きて暁ちかからむ
冬の日のかたむき早く櫟原こがらしのなかを鴉くだれり
ここに来てこころいたいたしまなかひに迫れる山に雪つもる見ゆ
いただきは雪かもみだる真日くれてはざまの村に人はねむりぬ
山がはのたぎちの響みとどまらぬわぎへの里に父老いにけり

 

 

*この歌の次の歌

>あしびきの山こがらしの行く寒さ鴉のこゑはいよよ遠しも

歌の意味と現代語訳
山をこがらしの引き過ぎていく寒さよ 風に運ばれる鴉の声がかき消されるかのように遠ざかっていく

出典
『あらたま』大正4年 13 冬の山「祖母」其の2

歌の語句
あしびきの・・・山にかかる枕詞
山こがらし・・・「山」と「こがらし」とを複合した茂吉の造語
行く・・・水が流れうつる。風が吹き通るの意味。古くから擬人的に用いる用例がある。
参考:『万葉集』二四五九「わが背子が浜行く風のいや急(はや)に急事なさばいや逢はざらむ」
遠しも・・・「も」は詠嘆の終助詞

表現技法
3句切れ
「あしびきの」の枕詞、風の擬人的用例の「行く」などを用いて、万葉調に統一している。

鑑賞と解釈

初句の枕詞から万葉調に統一し、厳粛なまでの寒さと、その中の人の死を表す一連に共通のテーマである。

上句で述べているのは「寒さ」なのであるが、その裏にあるこがらしの音が、下句の鴉の「声」に、同じ聴覚的要素という共通項で意味上のつながりを持つ。

佐太郎が言うように、3句の名詞止めのあとに突然「鴉』とつながるのだが、この鴉は視覚のとらえるものではなく、鴉の声のみであって、目で見るものではない体感的な寒さを聴覚の捉える二つの要素によって表すものである。

「作歌四十年」より作者の解説

「山こがらし」という造語をし、それに「あしびきの」という枕詞を置いている。「行く」という語について或る人批評してあったが、これは古来からの用法があり、これでよい。また自分のは、「ものの行」の「行」とも似た使い方である。鴉は「寒鴉」だが、鴉は誠に特別な、原始的な艶のない鳥である。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)

 

佐太郎の評

上句と下句は一種の配合のようにも受け取れるが、これは配合というよりも、省略があるので、「山こがらしの行く寒さ」の中に、鴉のこえも混じっている。それにしても上句でこがらしをいって、突如として、「鴉のこゑは」とおこし、「いよよ遠しも」と結ぶというのは常識を越えた手際である。 「茂吉秀歌」佐藤佐太郎




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