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わがこもる部屋に来りて穉児は追儺の豆を撒きて行きたり 斎藤茂吉の豆まきの短歌

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斎藤茂吉には、節分の豆まきの短歌が多く詠まれています。

多くは子どもが豆まきをするという内容です。

斎藤茂吉の節分の短歌をご紹介します。

斎藤茂吉の節分の短歌

節分,短歌

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斎藤茂吉の豆まきの短歌、いちばん新しいもので思い出すのは、歌集『ともしび』より

行春の部屋かたづけてひとり居り追儺の豆をわれはひろひぬ

読み:ゆくはるの へやかたづけて ひとりおり ついなのまめを われはひろいぬ

出典:「ともしび」 斎藤茂吉

初句は「ゆくはる」、晩春のことです。

このときのかたづけは、さらにそれから日が経った頃のことで、節分の名残の豆が落ちているのに気が付いたということでしょう。

「行春」「追儺の豆」いずれにも季節感が表れており、ほのぼのとした感じが漂います。

追儺の意味

「追儺」とは、疫鬼や疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事のことで、節分の豆まきのことをいいます。

神社などで行われる豆まきは、追儺式と呼ばれます。

 

わがこもる部屋に来りて穉児は追儺の豆を撒きて行きたり

出典:『白桃』 斎藤茂吉

豆まきは子どもの成長と共に、後年の作品によく読まれています。

斎藤茂吉の書斎の部屋にやってきて、子どもが豆まきをして行ったという歌です。

ほのぼのとするような短歌です。

斎藤茂吉の子ども

幼子というのは、長男の斎藤茂太、またはその弟妹達でしょうか。

 

家いでて街に来しかばこのゆふべ追儺はをさなき子等がしつらむ

出典:『寒雲』 斎藤茂吉

本当は家長である父がするべき豆まきですが、子どもたちがしているだろうなという述懐です。

「追儺の豆」は他にも出てきます。

 

ひとり寝のベットの上にこの朝け追儺の豆はころがりて居り

出典:『寒雲』 斎藤茂吉

こちらも作者が留守の間に、子どもが撒いていった豆であるのでしょう。

 

をさなごの筥を開くれば僅かなる追儺の豆がしまひありたり

出典:『寒雲』 斎藤茂吉

節分ではない時に、ふと子どもが大切にしている箱を開けてみると、節分の豆が入っている。

後で食べようと思ったものでしょうか。ほほえましいですね。

 

節分の夜ちかづきて東京の中央街に風のおとする

作者:斎藤茂吉 『つきかげ』

晩年の最後の歌集にある歌。

もうすぐ節分だなと思う、この季節の移ろいがまさしく「節分」であるのです。

節分とは本来「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日を指し、立春の前日の日を指します。

とはいえ2月は一年で一番寒い時期でもあり、木枯らしの音が通りに響いている。

そのような実質的にはまだ冬の風景を詠んでいます。

「中央街」がどこかは気になるところですが、どこか大通りを吹き抜ける風を捉えたところに思われます。

それでは皆様も今日は豆まきを楽しまれてください。




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