街上に轢かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ
斎藤茂吉『白桃』から主要な代表歌の解説と観賞です。
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斎藤茂吉の短歌案内
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斎藤茂吉の作品の特徴と作風「写生と実相観入」
街上に轢かれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ
読み:がいじょうに ひかれしねこは ぼろきれか なにかのごとく ひらたくなりぬ
意味と現代語訳
作者と出典
斎藤茂吉 『白桃』
歌の語句
・街上に…読みは「がいじょう」。道路のことを指すのだろう
・ぼろ切れ…漢字だと「襤褸切れ」
・何かのごとく…たとえとなる物が判然としないままの表現
・平たくなりぬ…形容詞「平たし」が基本形 「なる」と官僚の助動詞「ぬ」がついている
短歌の修辞法と表現技法
・句切れなし
解釈と鑑賞
歌集『白桃』の中の「独吟抄」10首のうちの1首。
外を歩いたときに見たものをそのままに歌って、即物的でインパクトのある印象に強い歌。
捨て置かれたがそのままにあるように、「平たくなりぬ」とその有様を描写したのみで、哀れとも、かわいそうなどの主幹句をつけずに、投げ出すように歌っている。
ポイントとなるのは、3句の「ぼろきれか何かのごとく」の部分。
まるで一枚の布になってしまったかのように、何度も車の下敷きにされてしまった猫の変わり果てた姿が衝撃的でもある。
斎藤茂吉の自註
猫が自動車にひかれて、襤褸切れか何ぞのように平たくなっているのをその儘詠んだ猫は家庭動物であるから、街上ではうまく逃げることを知らないで、 電車の開通された時などは電車にも轢かれたものである。 かたがたいろいろ複雑な感情をこもらせてはいる、がこんな具合に無感動のように表現した。こういう手法は正岡子規の発明になるもので、自分らはその恩を受けているのである、ただその頃は、殺風景として、美的でないものとして、雑報として排除したものを、このように生かしたのが、後進自分らの努力であったのである。―斎藤茂吉著『作歌四十年』より
佐藤佐太郎の評
佐藤佐太郎はこの歌の主題について
この歌には、「一区切りをはりたれば人麻呂歌評釈の筆を置きてしばらく街上を行かむとす」という詞書がある。ひさしぶりに街に出ると、痛々しいものが眼につくといって、猫の死骸を哀れんだ歌である。猫は何度も車に引かれて板切れのように平たくなっている、誰でも見ている、このつまらない、汚いものから豪光が経つような歌である。
そして、この歌の詠嘆についてシカのように
単に街上で猫が死んでいるというのでなくて、「平たくなりぬ」といったところに作者の詠嘆がある。どう平たいか、「ぼろ切か何かのごとく」なっている。これは比喩とか形容とかいうものではない。状態そのっものである、市街は動物の死骸というよりももうぼろ切に用になってしまった。自分の目でkおのように見、自分の言葉でこのようにいうのは誰にでもできる小野ではない。それを「ぼろ切か何かのごとく」とほとんど俗語そのままのようにいって、ことあの響きは波動的で、そこから永遠に通う嘆声がきこえてくる。―「茂吉秀歌」より
塚本邦雄の評
塚本邦雄はこの歌を酷評しているが、斎藤茂吉の弁を肯定すべき点として
試みとしては一応成功していることは認めてよかろうし、確かに応答部を軽い鈍器で殴られたようなある種の「感動」に近い反応は覚える。だが、至妙の表現か何かのようにこの歌を称揚するのは、贔屓の引き倒しに似る。―塚本邦雄「茂吉秀歌」より