かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり は斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』の代表的な短歌作品の一つ。
斎藤茂吉の短歌代表作の解説と観賞のポイントを記します。
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斎藤茂吉の短歌作品
この歌の掲載されている歌集『あらたま』一覧は 『あらたま』斎藤茂吉短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞 にあります。
※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
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かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
読み:かがやける ひとすじのみち はるけくて こうこうとかぜは ふきゆきにけり
現代語訳と意味
かがやいている、この一本の道の行き先は遠く遥かであり、ごうごうとかぜは吹いているのであるよ
作者と出典
斎藤茂吉 歌集『あらたま』 大正2年 6 一本道
歌の語句
- かがやける…動詞「かがやく」+詠嘆の助動詞「けり」の連用形
- 遥けくて…形容詞「はるけし」の連用形+接続助詞「て」
「かうかうと」について
「かうかう」+「と」
「かうかう」には、風の音を表す擬音「ごうごう」と同じ意味の他、「煌々(こうこうと)」の「キラキラ輝く明るい様」の両方の意味がある。
ここでは、擬音「ごうごう」の意味
「吹きゆきにけり」の品詞分解
「吹く」+「ゆく」の複合動詞「ふきゆく」に詠嘆の助動詞「けり」をつけたもの。
「ふいていくのだなあ」と訳す
句切れと表現技法
- 句切れなし
この歌と関連が深い歌
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 『あらたま』斎藤茂吉
解釈と鑑賞
第二歌集『あらたま』の代表的な作品に含まれる一首。
野原を通る道の情景を写生の技法で表したもので、背景には、アララギの師である伊藤左千夫の死があり、死後の決意を強い印象の道の風景に重ねて表したもの。
一連のより代表的な歌は、この歌の一つ前の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 」 の方である。
斎藤茂吉自身の解説
斎藤茂吉自身がこの一首前の「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」 の歌について述べる中に、この道の風景について
秋の国土を一本の道が貫通し、日に照らされているのを「あかあか」と表現した。(中略)貫通せる一本の道が所詮自分の「生命」そのものである、というような主観的なもので、伊藤左千夫先生没後であったので、おのずからこういう主観句になったものと見える。―出典『作歌40年』斎藤茂吉著
また、
「この一首は私の信念のように、格言のように取り扱われたことがあるが、そういう概念的な歌ではなかった」。
とも解説している。
概念的云々というのは、スローガン風の歌ではないという意味で、風景自体は代々木原の実景を元にしたものと作者が言っている。
一本道と決意
さらに斎藤茂吉の随筆『童馬漫語』にといては、この歌の背景をさらに詳しく下のように
「予の歌は秋の一日代々木の原でできた歌である。左千夫先生追悼号の終りの方に予は「秋の一日代々木の腹を見渡すと、遠く遠く一本の道が見えている。赤い太陽が円円として転がると一ぽん道(ママ)を照りつけた。僕らはこの一ぽん道を歩まねばならぬ」と記しているこのような心をできるだけ単純に一本調子に直線的に端的に表現しようと思ったのである。」
とあり、師でアララギの代表者であった、伊藤左千夫が急に亡くなったため、その後の同人たちを「僕ら」としていることが見て取れる。
「ひとすぢの道」の意味
「ひとすぢの道」とは、実景にある実際の道の風景ではあるが、それにアララギ同人である「僕ら」の抽象的な意味での歩みを重ねていることがわかる。
その意味での「道」とは、言ってみれば「短歌の道」なのであるが、師を失った今、その道が輝かしくも果てしなく遠いように思われる。
さらに、そこに、厳しさをうかがわせる風がごうごうと吹いていて、師の亡き後の自分たちの困難をも予感させるが、それに対しても、上の通りに「歩まねばならぬ」との決意が含まれている。
一連の歌
一本道の一連の短歌
6 一本道
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
野の中にかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
はるばると一すぢのみち見はるかす我は女犯をおもはざりけり
我がこころ極まりて来し日に照りて一筋みちのとほるは何ぞも
こころむなしくここに来れりあはれあはれ土の窪(くぼみ)にくまなき光
秋づける代々木の原の日のにほひ馬は遠くもなりにけるかも
かなしみて心和ぎ来むえにしあり通りすがひし農夫妻はや