神無月空の果てよりきたるとき眼ひらく花はあはれなるかも
斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞です。このページは現代語訳付きの方です。
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神無月空の果てよりきたるとき眼ひらく花はあはれなるかも
読み:かんなづき そらのはてより きたるとき めひらくはなは あはれなるかも
現代語訳
神無月のころ、秋が訪れるにしたがって開こうとする花は風情があるものだなあ
出典
『赤光』大正元年 10 「ひとりの道」より
歌の語句
・神無月 10月のこと。旧暦10月の異称
・「きたるとき」…来(基本形「く」の連用形)+たり(連体形)+とき」
・あはれなるかも…「あはれ(名詞)+なり(断定の助動詞)+かも(詠嘆の助動詞)」
・「果て」は初版においては「際涯」の字にルビ(はて)であった。
あはれの意味
用語解説
「かも」の用法
用語解説
《接続》体言や活用語の連体形などに付く。
①〔感動・詠嘆〕…ことよ。…だなあ。
修辞と表現技法
・初句のあとには主格の格助詞「の」(または「は」)の省略がある。
・「神無月(かんなづき)で始まる短歌は、他にも用例がある。
神無月くれやすき日の色なれば霜の下葉に風もたまらず
-藤原定家
神無月木の葉ふりにし山里は時雨にまがふ松の風かな
神無月しぐれふればかなら山のならの葉がしは風にうつろふ
-源実朝
解釈と鑑賞
上に述べたとおり、「神無月」で始まる和歌は古くからあり、それに倣ったと考えられる。
ただし、歌の中の比喩は古典的でもなく、斎藤茂吉においてもめずらしいものである。
塚本邦雄は、この詩の解説で「一瞬、これが茂吉?」という、歌を一読したときの反応を率直に表している。
一首の比喩
「空の果てより」来るものの主語は「神無月」、すなわち10月である季節の到来なのであるが、「空の果てより」で一種の”場所”や方角から、「秋がやってくる」との幻想的な内容となっている。
次の「眼ひらく」は、こちらも花が開くことの比喩であるが、秋になって開く花は、春に開花する花とも違う。
短い季節に開く花の「あはれさ」とはかなさ、美しさが、上の句の比喩と相まって、印象を深くしている。
一連の「ひとりの道」では、「ひとりの安けさ」も繰り返されるが、それを強く打ち消すように、鳴かずに落ちる鳥や、自分に向かわない星、一人単独で死ぬ獣などと重ねて、自らを「みなしご」と呼ぶ作者の孤独感も浮き彫りになる。
歌集『赤光』においては、このような線の細い、繊細な感傷を表した歌が見られ、発刊当時はもちろん、今読んでも新鮮なものとなっている。
なお、斎藤茂吉には、もう一首「かみな月」で始まる短歌がある。
かみな月十日山べを行きしかば虹あらはれぬ山の峡より『あらたま』
塚本邦雄の評
無用に見える第5句が、この斬新な歌を古歌さながらに荘厳した。そして「神無月」と響き合った。一首は初句、3句でかすかに息を継ぎつつ、緩やかに放物線を描いて中空に消える趣がある。
もっとも茂吉らしからぬ歌でありながら、茂吉らしくない音色がこもっていて、私は『赤光』の中でも珍重に値する歌と信じてきた。「茂吉秀歌」塚本邦雄著より
一連の他の歌
霜ふればほろほろと胡麻の黒き実の地(つち)につくなし今わかれなむ
ながらふるさ霧のなかに秋花を我詰まんとす人に知らゆな
夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を戀ひむ一人のゆゑにこころ安けし
白雲は湧きたつらむか我ひとり行かむと思ふ山のはざまに
ひとりなれば心安けし谿ゆきて黒き木の実も食ふべかりけり
ひかりつつ天を流るる星あれど悲しきかもよわれに向はず
おのづからうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入日赤きに
いのち死にてかくろひ果つるけだものを悲しみにつつ峡に入りつも
みなし児兒の心のごとし立ちのぼる白雲の中に行かむとおもふ
もみぢ斑に照りとほりたる日の光りはざまにわれを動かざらしむ
わが歩みここに極まり雲くだるもみぢ斑のなかに水のみにけり
はるけくも山がひに来て白樺に触りて居たり冷たきその幹
ひさかたの天のつゆじもしとしとと獨り歩まむ道ほそりたり