北杜夫が作家になる前に短歌を詠んでおり、歌集も編まれています。
北杜夫の短歌の紹介と合わせて、短歌をめぐる、父斎藤茂吉との関わりはどのようなものだったのかをまとめます。
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北杜夫の短歌
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精神科医で作家の北杜夫は作家になろうとする前に、短歌を詠んでいたことがあります。
北杜夫の父は歌人の斎藤茂吉であり、北杜夫は、父とその短歌を大変に尊敬しており、父の短歌集も熟読し、それに倣って歌を作った時期があるのです。
北杜夫の短歌への斎藤茂吉の反応
それに対して父である茂吉の反応はどうだったかというと、意外なことに当初はたいへん好意的であったのです。
学生時代の北杜夫(宗吉)が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸◎を付けた歌もあったと言います。
この◎というのは、短歌の選歌をする時に、丸やバツ、佳作には二重丸を用いるため、息子である北杜夫の歌に対しても、同じように対峙したものと思われます。
そして
「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」
と手紙に書き送ったというのですから、茂吉から見ても、期待できる作品であったことがうかがわれます。
そのまま、北杜夫が短歌を続けていたらと思わずにはいられませんが、その後、北杜夫は、成績が落ちたことを父に知られてしまいます。
私は中学まで優等生であったのだが、高校に入ってから寮の委員などをし、学校へ通うよりかぼちゃの買い出しへ行く方が多かったし、短歌どころか文学青年となって、小説、哲学の本を読むのに忙しく、完全に劣等生になっていた。
それで成績は「発表されぬ」とかごまかしたが、父は知り合いの教授に私の成績を調べさせた。すると、ビリから数えた方が早い成績ではないか。さらに、私が医学部は自信なかったので、「ファーブルのような道を進みたいから動物学を受けたい」と言い出すと、たちまち激怒し、「お前はバカになったどうしても医者になれ。短歌などすぐやめろ」という意味の炎のような手紙をよこした。
文学には反対、あくまで、医者、それも精神科医ではなくて、外科医になるようにというのが茂吉の示した道でした。
あくまで医師が正業、短歌はそれとは別という、自分と同じ道を北杜夫にも求めたことになります。
しかし、北は、最終的に文学の道を選びます。そしてのちにしみじみと述懐を述べています。
僕の文学的開眼は一番最初はおやじの歌だったんです。だからおやじがいなかったら、ぼくはいま三文作家なんかになっていなかったと思いますね。―『この父にして』
北杜夫の短歌
北杜夫の短歌は、出発が父茂吉の短歌であり、そこに大きな影響を受けています。
北杜夫氏によると、上の父とのやり取りがあった後
私は打ちのめされ動物学を諦めた。短歌はそれでもしばらく続けていたら3年生の半ば頃、限界を感じて辞めてしまった。したがって私が短歌と縁があったのは2年半くらいということになる。
ということで、残っているのは、その2年半、昭和20年からの作品ということになります。
以下に北杜夫の短歌をご紹介します
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赤茶けし焼跡に咲く白小花ひっそりとして虻しのびよる
昏れゆけばくろき森辺にさびしくも鳴きかはしゐるひぐらしあはれ
梓川の水音聞きつつ垢じみし畳のうへに黙してゐたり
終電車の出で行く音を聞きながら目覚めてゐたりくらやみの中
力尽き呆けたるごとわれを乗せて青田のなかを汽車は走れり
疾風(はやち)ふく夜ふけゆきてひっそりと赤き表紙の本閉じにけり
ものなべて静まりゆきてガラス戸の白き蛾ひとつ動かずなりぬ
うれひのみわが身にせまるこの宵を蛍の光流れけるかも
ひぐらしを聞くべくなりてなにがなし悲しきものの来らむとする
このゆふべ遠き野末にほろほろとあがる煙を見つつ帰りき
焼跡に霜降りにけり悲しかるちまたのひびきよどみてゐたり
冬枯のくぬぎ林の色しづみ音こそなけれ入日赤きに
入日赤くここの川原を照らしつつ草食む馬が首を振りたり
ひとりごとを云いつつちまた行くときに冷々として雨ふりゐたり
夜半の風とどろきすぐるたまゆらにさしせまりくる断想ひとつ
東京湾のなかほどにして黒き波に梅干しの種一つ吐きすつ
岩かげに身を投げだせり山のうへにゆふぐれんとして霧たちわたる
北杜夫氏自身が自身を持つ歌
他に北杜夫氏自身が、満足すべき作と感じているのが下の歌です。
満たされぬ心にをれば小さき手に蝉を鳴かせて童来にけり
楢落葉の音もこそすれあきらめに似しわが歩みここにとどまる
山の湯にしましまなこをつむりたり今のうつつの湯の流る音
あかときのこのしずけさや飯(いひ)炊くと集めし杉の落葉のしめり
山かぜのつたふる音をさびしみて硫黄の湯あみ一夜をねむる
とどまらぬもののはかなさ湯あみどにいで湯はひとり湧きぬいで湯は
明らかに斎藤茂吉他の摂取が読み取れる歌でもありますが、北氏自身は
自歌集『寂光』を実に久しぶりにめくっていたら、今の年齢となった私も納得できるような歌がほんの少しだが見つかったのである。これらは私自身が好きで当時は自信を持っていた歌である
と述べています。
それでは、斎藤茂吉が二重丸をつけた歌はというと、たとえば
萌えいでし青きがうへに降る雪を床より出でて見てゐる吾は
北氏自身が、好きな歌といってあげている歌とは、やや違う、地味ともいえる歌です。
ちなみに北氏の好きな歌と言ってあげている歌は
一首目は、おそらく窪田空穂に原型があります。2首目は、茂吉の「松風の音もこそすれ」、「わが歩み」は『赤光』、3首目山の湯は、「死にたまふ母」、4首目は「おおきなるこのしづけさや」の高千穂峰、5首目「松かぜのつたふる音」『小園』、そして、最後は「もののゆきとどまらめやも」『あらたま』の父の歌に倣ったものでしょう。
それにしてもここまで父の短歌に倣い、父に続こうとした息子、歌を見れば歴然なのですが、「短歌をやめろ」とはもったいないことを言ったものです。
その後の文学者となった北杜夫を父茂吉はどのように見ていたのでしょうか。後日談を聞きたかったものです。