ここに来て狐を見るは楽しかり狐の香こそ日本古代の香 斎藤茂吉の狐を詠んだおもしろい短歌をご紹介します。
斎藤茂吉の晩年の最後の歌集『つきかげ』に収録されているものです。短歌の解説と鑑賞を記します。
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ここに来て狐を見るは楽しかり狐の香こそ日本古代の香
読み:ここにきて きつねをみるは たのしかり きつねのかこそ にほんこだいのか
作者と出典:
斎藤茂吉 歌集『つきかげ』
語句の解説
- ここに来て…動物園などで狐を見たと思われる
- 楽しかり…基本形は「楽し」 カリ活用
- 香…読みは「か」
- 「香」のリフレインあり。体言止め
解説と鑑賞
最晩年の歌集 『つきかげ』の中にある一首。
おそらくは、孫と一緒に動物園にやってきて、動物を観察した折の歌だろう。
「狐の香」
動物園の檻の前に立つと、動物の匂いがすることがあるが、「香」というのは、実際の匂いを感じたのかもしれないし、それよりも、狐のたたずまいのようなものも含まれるかもしれない。
「狐を見る」そのことも、稀な事であるのだが、海外の獣、たとえば、ライオンや象などとは違って、狐は日本にも生息する身近な動物でもある。
斎藤茂吉は故郷は山形県なので、あるいは、幼少のころに目撃をした可能性も十分にある。
何となくなつかしい思いもあったのかもしれず、それを太古的に「日本古来」と入れたのであろう。
斎藤茂吉の動物園の歌
茂吉には、『赤光』にも動物園の歌がある。
けだものは食(たべ)もの恋ひて啼き居たり何(なに)といふやさしさぞこれは
ペリカンの嘴(くちばし)うすら赤くしてねむりけりかたはらの水光(みづひかり)かも
わが目より涙ながれて居たりけり鶴(つる)のあたまは悲しきものを
けだもののにほひをかげば悲しくもいのちは明(あか)く息(いき)づきにけり
元々動物や昆虫を好んで題材にもしているところを見ると、動物好きであったのだろう。
この一連の歌に置いても、「けだもののにほひ」が取り上げられており、それによって、感覚的、生理的に動物を把握していることが感じられる。
動物と香りは、よほど間近に接しているならともかく、あまり気が付かないものでもあり、短歌に取り上げようとは、それほど思われないと思うが、茂吉には関心のある事象であったらしい。
なお、
人をらぬ実相院道(じつさうゐんみち)のゆふつかた日本古代の菊の香ぞする 河野裕子氏
の歌を、狐の歌の本歌取りという人がいるが、菊の香りは誰しもが感じやすいものである。
獣の匂い、それも動物園の檻の前で感じる匂いを、「快い」と感じる人は、まずいないと思う。
佐藤佐太郎の斎藤茂吉の短歌評
斎藤茂吉の短歌の解説書『茂吉秀歌』を記している佐藤佐太郎のこの歌の評は、
動物園にでも行って狐を見ている歌で、声調が長く揺らいでいるというよりは、実った果物のように堅くしまっている。「楽しかり」という中には狐の形態も毛色もふくまれているだろう。
私たちは狐の体臭を今まで「日本古代の香」として感じはしなかったが、そういわれればその感覚と相関して、確信をとらえた直観の鋭さ新しさにいまさらのように驚くのである。―『茂吉秀歌』
『つきかげ』の一連の歌
二階にてきけば野球の放送す老懶(ろうらい)の耳飽くや飽くやと
あふむけに臥しつつをりてわが母の中陰の日に涙ぐみたり
わが気息(いぶき)かすかなれどもあかつきに向ふ薄明にひたりゐたりき
五年ぶりここに来りてほうほうと騰(のぼ)るさ霧を呑まむとぞする
この部屋にいまだ残暑のにほひしてつづく午睡(ごすい)の夢見たりけり