新美南吉は教科書にも掲載されている『ごん狐』の作者です。
新美南吉の誕生日は7月30日、忌日は貝殻忌と呼ばれる3月22日になります。
きょうの日めくり短歌は新美南吉の短歌と、南吉の代表作「ごん狐」にちなむ短歌をご紹介します。
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『ごん狐』の作者は新美南吉
『ごん狐』の作者は、新美南吉。1913年の7月30日がその誕生日、忌日は、そのわずか29年後、貝殻忌と呼ばれる3月22日です。。
『ごん狐』の作者とわざわざ言う理由は何かというと、当ブログにおいでになる人で、斎藤茂吉が「ごん狐」の作者だと思っている方がときどきおられるようなのです。
名前の「南吉」と「茂吉」が似ているからでしょうね。
『ごん狐』は教科書にも掲載され、児童文学というジャンルを広く広めた作品でもあります。
斎藤茂吉の狐の短歌は
斎藤茂吉の狐の短歌 ここに来て狐を見るは楽しかり狐の香こそ日本古代の香
『ごん狐』は「赤い花」が初出
ただし、新美南吉の『ごん狐』は、最初から今の形であったわけではありません。
『ごん狐』は鈴木三重吉主宰の「赤い花」に掲載されたのが初出なのですが、その際、鈴木三重吉が、大幅な加筆を行ったようです。
鈴木三重吉は、夏目漱石の門下生だった人です。
新美南吉がつけたタイトルは「権狐」
そもそも、南吉が自分でつけた支所の題名が「権狐」。
「ごんぎつね」はその漢字の名前だったというのですが、今から考えると全くそぐわない名前であり、題名です。
そのままのタイトルであれば、ここまで有名にはなからなかったかもしれません。
児童向けなので、漢字は少ない方が良いのですが、まだまだ児童文学というジャンルが、世の中では知られていない時代に置いて、そのような指導を三重吉が行ったという点は興味深いものがあります。
新美南吉の短歌
他に南吉は、詩と、短歌も200首ほど遺したということです。
下はその中の一首
まま母とあらがいてのち家出ぬ赤きけいとううつつなく見る
上は、南吉が17歳のときの短歌だというので、その頃には歌も詠んでいたようです。
新美南吉の少年時代は母に早く死に別れ、その後は継母と折り合いが悪かったというかわいそうな幼少時代でした。
上の歌の、「うつつなく」というのは、ぼんやりとして、こころここになく、の意味ですが、いさかいが、南吉の心に及ぼした傷の大きさを思わせます。
そのためかも知れませんが、南吉は結局女性と結婚をすることはなく、結核のため29歳で亡くなりました。
ごん狐の短歌
現代短歌に、新美南吉の「ごんぎつね」を題材にした作品があります。
春畑茜氏の歌集『きつね日和』にある一連の作品です。
描かれてきつねのごんは見てゐたり絵本の秋をゆく葬の列
ごんぎつねけふを撃たるる身と知らず絵本の山に栗を拾へる
秋草はひかりと影をゆらしをり栗を運べるごんのめぐりに
つぐなひに栗の実ひとつまたひとつごんは拾へり自(し)が影のなか
ゆふぐれの橋にをさなのこゑが問ふなぜ兵十はごんを撃ちしか
そののちを本は語らず 裏表紙閉づればしろく野の菊が咲く
いずれも童話になじんだ人からは、容易に情景が思い出せる一連の作品です。
最後の歌の「そののちを本は語らず」というのは、ごんが亡くなってしまった、お話の最後の悲しみを暗示するものとなっています。
修正された『ごん狐』の最後
新美南吉の童話『ごん狐』の最後は
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
というものです。
上に、鈴木三重吉が草稿に手を入れたことを言いましたが、ごん狐の最後は、南吉が書いたものは
権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました。
というものでした。
ごんが最後に撃たれてしまうのは変わりませんが、皆さんはどちらがいいと思いますか。
二つを読み比べてみて、考えてみてくださいね。
それではまた明日!