小鳥らのいかに睦みてありぬべき夏青山に我は近づく
斎藤茂吉『つゆじも』から主要な代表作の短歌の解説と鑑賞を記します。
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『つゆじも』一覧は 『つゆじも』斎藤茂吉短歌代表作品一覧にあります。
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※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
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小鳥らのいかに睦みてありぬべき夏青山に我は近づく
読み:ことりらの いかにむつみて ありぬべき なつやあおやまに われはちかづく
作者と出典
「つゆじも」
現代語訳
小鳥たちはどのように仲良くすごしているだろうか その小鳥たちのいる夏の青い山に私は近づいていく
歌の語句
小鳥ら・・・「ら」は複数の他親しいものにつける言葉
いかに・・・どのようにの意味の副詞
睦みて・・・基本形「睦む」仲よくする。親しみ合う。むつまじくする。
夏青山・・・作者の組み合わせ 一種の造語
ありぬべきの品詞分解
「ある」ラ変動詞+「ぬ」強意の助動詞
「ぬ」は、この歌では完了ではなく、[きっと~」の意味になる。
「べき」は「べし」の連体形
表現技法
句切れなし
鑑賞と解釈
斎藤茂吉の「つゆじも」より、九州の雲仙温泉に滞在中の歌。
「ちかづく」は最初に雲仙に着いた時を指すだろう。
一首の背景
連作には「温泉獄療養」との詞書がある。
斎藤茂吉は大正6年に九州の長崎医専に単身赴任したが、翌年スペイン風邪に罹患。
病状は大変に重くそこから回復するまでに50日を要した。
途中島木赤彦が見舞いに訪れ、横になっているだけの斎藤茂吉を心配して雲仙温泉での療養を進めたため、囲碁は温泉旅館で療養を続けるということになった。
7月のことで歌の夏青山はその雲仙温泉から見える山々をさす。
山形に育って元々山の好きな茂吉には見慣れない長崎の眺めよりもどんなにか安心を覚える景色であったことだろう。
雲仙の山を詠む連作
本作は7月26日から30日までの連作のうちの一首。
作者の病中の作であるが、山で見かけたものを散りばめた連作には、病の物悲しさとともに、治癒への希望もうかがえる美しい一連となっている。
「小鳥ら」の「小鳥」というのは、「鳥」よりもいかにも可愛らしい呼び名である。「ら」は複数形だけでなく親しみを込めた呼び名に使用する例が万葉集に見られる。
「いかに」はやや不明といえども「睦みてありぬ」の想像の確信は作者の気持ちに沿うものであろう。
単身赴任ののちに夫人が来たとは言え、見知らぬ土地で心細いところに、親しい今木赤彦がわざわざ九州まで来て、療養の手配をしてくれたのである。
その雲仙の山に人の手助けを終えてやっとやってきた。その山に鳥たちが仲良く睦み合って暮らしているだろう、そこに自分もて療養するという静かな感慨がうかがえる。
斎藤茂吉自身の解説
7月28日に作った。病身孤独の寂しさで、時には旅館をいでて、山の静かなところを求めては歩いた。自分がただ一人であるから「小鳥らのいかに睦みてありぬべき」の句が出たのであった。(中略)描写の嫉ましいような心が潜んでいるのである。―出典:斎藤茂吉『作家四十年』
一連の歌
七月二十八日
きぞの朝友の行きたるこの道に日は当り居り見つつ恋ほしむ
家いでて来にしたひらに青膚の温泉嶽の道見ゆるかな
小鳥らのいかに睦みてありぬべき夏青山に我はちかづく
山の根の木立くろくして静けきを家いで来つつ恋ふることあり
羊歯のしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉(ひぐらし)ひとつ近くに鳴きつ
たまたまは咳の音きこえつつ山の深きに木こる人あり
臥処にて身を寂さしみしわれに見ゆ山の背並のうねりてゆくが
あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗く遠やま明あかし
夏の日の牧の高原しづまりて温泉の山やま暮れゆくを見たり
遠風のいまだ聞こゆる高原に夕さりくれば馬むれにけり
水光ななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき