斎藤茂吉の兄弟には、兄と弟、妹たちがいます。
斎藤茂吉が兄弟を詠んだ短歌には家族の関わり思わせる心に響く歌があります。特に北海道に医師の兄を訪ねて兄弟3人が再会した時の一連の歌が優れています。
斎藤茂吉の兄弟についてとその作品をまとめます。
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斎藤茂吉の兄弟とその短歌
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斎藤茂吉の旧姓は守谷。元の名前は守谷茂吉で、その後、斎藤家に養子に入ったので、斎藤茂吉となりました。
斎藤茂吉には、2人の兄と弟、他に妹もいます。このうち、斎藤茂吉の短歌に詠まれてかかわりの深いのは、兄2人と弟です。
斎藤茂吉の家系図については
斎藤茂吉の家系図と家族 両親と養父母、子孫について
北杜夫らの息子については
斎藤茂吉の息子斎藤茂吉の息子 作家の北杜夫と精神科医斎藤茂太
の方をご覧ください。
斎藤茂吉の兄の短歌
斎藤茂吉が兄守谷広吉を詠んだ短歌は、茂吉の8歳年上で、日露戦争に従軍しました。
以下のものが有名です。
三年(みとせ)まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝台戦(こくこうだいせん)に生き残り
茂吉の兄は、広吉と富太郎と二人とも日露戦争に従軍しました。
激戦地であったようですが、この兄、広吉は生き残って帰ってきたそうです。
他にも、
本よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり
と、送金を思わせる歌も『赤光』にあります。
冒頭の歌は、広吉が58歳で逝去時の作品。他に
やうやくに冬ふかみゆきし夜のほどろ兄を入れし棺のそばにすわりぬ
というのもあります。
次兄富太郎を詠んだ斎藤茂吉の短歌
その次の兄、富太郎とは、長兄以上に交流が深く、茂吉が短歌を書き送った手紙も残されています。
また、富太郎は、茂吉に倣って、北海道の医者となって働き、その後アララギにも投稿を始めています。
富太郎は、茂吉より5歳年上の明治34年生まれ。
日露戦争除隊後、鉄道学校に入学しますが、その後7年をかけて開業医の資格を取ります。
その後は八街道にわかり小樽南雲病院に勤務して、看護婦を妻として、その後開業医の拓殖医として、利尻島に独立しました。
たいへんな辺地であり、「なぜわざわざそのようなところを」といわれるような土地であったといわれていますが、その地で医療に尽力し、地域の人にも慕われていたのです。
山なかにくすしいとなみゐる兄はゴム長靴をいくつも持てり
午前二時すぎとおぼしきころほひに往診に行くと兄のこゑする
ひと寝入りせしかせぬまに山こえて兄は往診に行かねばならぬ
その兄の仕事ぶりを見て、茂吉は同じ医師として、尊敬の念を抱いたようです。
かすかなるもののごとくにわが兄は北ぐにに老いぬ尊かりけり
北海道で兄弟が再会
この兄と弟の3人の再開の場面を詠んだ一連の作品があります。
うつせみのはらから三人(みたり)ここに会ひて涙のいづるごとき話す
この「三人」というのは、兄富太郎と、弟高橋四郎兵衛のことです。
茂吉は北海道に兄を訪ねて17年ぶりの再会となりました。
富太郎55歳、茂吉50歳、四郎兵衛45歳の時です。
「うつせみの」というのは、長兄は既に亡くなっていたので、生きている兄弟が、という意味になります。
この時の歌は、
おとうとは酒のみながら祖父よりの遺伝のことをかたみにぞいふ
妻運のうすきはらからとおもへども北ぐににして老いに入りけり
過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すじを語りあふぞさびしき
といずれも、心に響く歌が残されています。
短歌も詠んだ斎藤茂吉の兄
しかし、富太郎の娘の富子は肺炎で死去、晩年は家族の縁も薄かったようです。
「妻運のうすきはらから」というのは富太郎が最初の妻と離婚したこと、そして弟の四郎兵衛も死別したことを指すのでしょうし、もちろん、茂吉自身の妻との不仲も含まれています。
富太郎は生涯で400の短歌を残したとされていますが、茂吉はこの兄の訃報を受けてショックを受けたのか、半身麻痺を起こして倒れてしまうのでした。
それだけ、幼いころから心の交流を保っていた兄であったことが歌をたどるとよくわかるのです。
舟に乗りて阿寒の湖を漕ぎためば思ひも愛しこの縁はや
北海道旅行の時の歌は歌集『石泉』に収録されています。
斎藤茂吉の弟を詠んだ秀歌
斎藤茂吉の弟である高橋四郎兵衛は、その最も最初は、斎藤茂吉の『赤光』の代表作「死にたまふ母」に登場しています。
上の山の停車場に下り若くしてはいまは鰥夫(やもお)のおとうと見たり
「やもお」は「やもめ」と同じで、四郎兵衛はこの時妻と死別していました。
死にたまふ母では他にも
火を守りてさ夜ふけぬれば弟は現身のうたかなしく歌ふ
もあります。
伝え聞く話では、四郎兵衛はいくらか活発な人でもあったようで、これらの歌にも、話好きでどこか茶目っ気のある弟との交流がうかがえます。
酒のみし伯父のことなど語りあひ弟は酔ひぬ涙いづるまで
弟に関する歌で、いちばん良い短歌、いわゆる秀歌は下の歌とされています。
弟と相むかひゐてものを言ふ互みのこゑは父母のこゑ
弟の声の中に、父母を思わせる声の質やイントネーションがある。そして自らの中にもそのようなものがあるということを感じ取るという内容です。
茂吉は、妻輝子のダンスホール事件で、弟に相談、一時世間を避けて、山形県内に住まわせていたこともあって、弟には様々に世話になっていたようです。
斎藤茂吉の歌碑を建立
のちに、四郎兵衛は、尊敬する兄の歌碑の建立に尽力します。
もっとも、斎藤茂吉はそれはあまり好まなかったようで、そこを訪れたのは、歌碑ができてようやく5年後のことでした。
それも四郎兵衛が知人を通じて懇願したのでようやくやってきたような様子でした。不思議な話ですが、茂吉はそのような派手な事や華々しい事好まなかったようですが、妻が新聞沙汰になった事件も県警していたのでしょう。
いざ来てみると、茂吉は大変喜んだ様子が歌に残っています。
わが歌碑のたてる蔵王につひにのぼりけふの一日をながく思はむ
一冬を雪にうもるる吾が歌碑が春の光に会へらくおもほゆ
その歌碑に記された歌は下の歌です。
陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ
斎藤茂吉には、他にも二人の妹がいますが、歌で知られているのは男兄弟の方です。
以上、斎藤茂吉の兄弟についてと、兄弟を詠んだ短歌をご紹介しました。