斎藤茂吉には、犬を詠んだ短歌があります。
斎藤茂吉の犬の短歌を歌集「暁紅」と最晩年の歌集「つきかげ」にある犬の歌はよく知られているものです。
今日の日めくり短歌は、「犬の日」にちなんで、斎藤茂吉の犬の短歌をご紹介します。
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犬の日 11月1日
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「犬の日」の由来は、
犬の日は11月1日 ペットフード工業会(現:一般社団法人ペットフード協会)など6団体が1987年(昭和62年)に制定。
日付は犬の鳴き声「ワン(1)ワン(1)ワン(1)」と読む語呂合わせから。犬についての知識を身につけ、犬をかわいがる日とされています。
斎藤茂吉の犬の短歌
斎藤茂吉の晩年の犬を詠んだ短歌3首を取り上げます。
寒くなりしガードのしたに臥す犬に近寄りてゆく犬ありにけり「暁紅」
目のまへの売犬の小さきものどもよ成長ののちは賢くなれよ「つきかげ」
わが家に隣れる家に或る一夜やむに止まれぬ野犬子を産む「つきかげ」
斎藤茂吉がどんな人かをコンパクトに知りたい時は、
斎藤茂吉 三時代を生きた「歌聖」
一首ずつ鑑賞してみましょう。
寒くなりしガードのしたに臥す犬に近寄りてゆく犬ありにけり
佐藤佐太郎は「永井ふさ子とのことを背景として受け取れる歌である」と言っている。
茂吉の歌にはあらゆる動物や虫の類に至るまでが、自分になぞらえて詠まれているので、あるいはそうかもしれないし、そうではなくても、寄り合う動物の姿にふと心が惹かれるような心持ちだったのかもしれない。
だとしたらむしろ、そのように読むことで、恋愛初期の強烈な思慕が、癒されるようなほのぼのとしたものを茂吉がそこに見たのだったのかもしれないと思う。
その前後の一連、
うづたかき落葉のうへにそそぐ雨われの乱れをしづかならしむ
彼の岸に至りしのちはまどかにて男女のけぢめも無けむ
を見ると、そのようなまどかさとは反対の葛藤の中にあって、上の犬の姿は、素朴な人の触れ合いに似て、ふと和まされた生き物の原初の姿なのかもしれない。
目のまへの売犬の小さきものどもよ成長ののちは賢くなれよ
「目の前の」は、これも小池氏同様に、目の前の犬に語り掛けている。
「小さきものどもよ」で、まだ幼い犬であることがわかる。
今のように犬が愛玩の対象ではなかった頃は、「賢い」ことが犬の誉め言葉であったが、やはり作者と動物の心理的な距離がはかられる。
そして、茂吉はまだ年少の時に、「賢い」ゆえに養子にもらわれた人であった。さらに東大に合格したので、30歳を過ぎて婿となった。
そうでなければ書生と勤務医のままで一生を終わったろう。
実際、周囲にも勉学に励むよう、たえず言われ続けただろうことは、想像に難くない。
そのように、作者茂吉が厳しい環境で育ったことを思ってみると、一層感慨が深い。
この歌は「茂吉秀歌」に佐太郎の解説がある。
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『茂吉秀歌』佐藤佐太郎219「つきかげ」目のまへの
わが家に隣れる家に或る一夜やむに止まれぬ野犬子を産む
自分の家の出来事でもない、おそらく伝聞なのだろうが、近隣の些末なニュースが題材だが、「或る一夜」で、一片の物語のような趣すらある。
本は「やむにやまれぬ」の七音、第四句だけで、この歌はつまらない報告から、辛みのきいた一首の佳品に生まれ変わった。」という。
塚本邦雄の解説では、
初句から技巧が凝らされている。「隣家」三音で済むところを、わざわざ持って廻って「わが家に隣れる家」とくだくだしい表現をしたところも、省略の文学である短歌修辞の要諦を、殊更に逆手に取って、特殊な効果を狙ったのだろう。
「やむに止まれぬ野犬」の頭韻効果も、上句の「家」の反復と照応して朗誦性を持つところも重要だ。
この歌のどこに作者の犬への同情があるのかというと、やはり「やむに止まれぬ」だろう。
犬の気持ちを代弁し、弁護する側に立っているということだろう。
なお、「目のまへの」については、塚本邦雄の「茂吉秀歌」には、
「あまりの天真爛漫さ加減に唖然とし、何か反語的な毒でも含んでいるのではないかと疑ってみるのだが、意外にも真情流露の作とおぼしい。」
とあるのみで、茂吉の生育環境には触れられてはいない。
きょうの日めくり短歌は、「犬の日」にちなんで、斎藤茂吉の犬の短歌3首をご紹介しました。
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