節分と豆まき、そして豆をもって払うとされる鬼の出てくる短歌や和歌にはどのようなものがあるでしょうか。
節分にまつわる短歌を探してみました。
藤原定家、橘曙覧、斎藤茂吉、与謝野晶子他の作品からご紹介します。
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節分とは
節分とは本来、「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日を指し、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日の日を指します。
今では、そのうち春だけが残っているということですね。
古くは節分=大晦日
旧暦では春から新しい年が始まったため、立春の前日の節分は、大晦日に相当する大事な日であったそうです。
月の満ち欠けを基準にした元日と、太陽黄経を基準にした立春は、ともに新年ととらえられていたそうです。
12月31日と同じような意味合いで、2月3日は季節の最後の日であったのです。
節分の習慣
節分の習慣と言えば、柊鰯、それから豆まきです。近年では恵方巻も盛んになりました。
柊鰯は魔除け
柊鰯は、節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭を門口に挿したものを言います。
「焼いた鰯の匂いを鬼が嫌い、柊の葉のとげが鬼の目を指す」として魔除けとなるといわれています。
豆まきは「鬼やらひ」のこと
豆まきは、一般家庭でも多く行われる節分の行事です。
始まりは室町時代の頃と言われています。
短歌や和歌では「鬼やらひ」と呼ばれ、この風景が歌にも詠まれています。
また鬼やらひは、「追儺」と書かれて、このままでも「おにやらひ」と詠まれますが、「ついな」の音読みでも読まれます。
お寺などで豆まきをするのは「追儺式」と呼ばれていますね。
節分の和歌
節分の短歌で、良く引用されるのは下の歌です。
もろ人の儺(な)やらふ音に夜はふけてはげしき風に暮れはつる年
作者:藤原定家『拾遺愚草』
意味:大勢の人々が鬼やらいをする音声に夜は更けてゆき、木枯らしの激しい風に暮れ果ててゆくこの年なのだ
他に
四方に今なやらふ声はしづまりて年をぞ守る夜半の灯
読み:よもにいま なやらうこえは しづまりて としをぞまもる よわのともしび
意味:至る所に聞こえていた豆まきの鬼やらいの声、それも今は静まって、見えるのは年の暮を守る夜の灯火だけだ
作者:源高門『霞関集』
節分の短歌
節分の短歌でご紹介したいのは、アララギ歌人の古泉千樫の短歌です。
節分の豆を撒く夜に泊りたるふるさとびとのしたしかりけり
作者:古泉千樫 『靑牛集』
なんともほのぼのとした家族的な風景が詠われてます。
他にも
家ぬちに灯かげあかるし節分の夕飯の膳に向ひけるかも
節分の豆まきにけりこの冬をわれつつがなくすぎにけらしも
ふるさとに旅には来つれたなひらに節分の豆をかぞへならべぬ
斎藤茂吉の節分の短歌
節分の夜ちかづきて東京の中央街に風のおとする
作者:斎藤茂吉 『つきかげ』
2月の頭はまだまだ寒く木枯らしの音が聞こえます。
斎藤茂吉には、他に子どもが取り置いた節分の豆を詠った歌があります。
おさなごの筥(はこ)を開(あ)くれば僅(はつ)かなる追儺(つゐな)の豆がしまひありたり
作者:斎藤茂吉 『寒雲』
父親のまなざしが感じられます。
他にも
斎藤茂吉の豆まきの短歌
鬼の短歌
家ごとに儺(な)やらふ声ぞ聞ゆなるいづくに鬼はすだくなるらむ
作者:香川景樹
意味:家々から追い払われた鬼どもはどこに群れ集まっているのだろうか
これは、架空の鬼の空想をふざけて詠んだ歌です。追われた鬼はどこに行ったのだろうかと、鬼の行方を問いかけています。
さらには、自分自身の内面にいる鬼を内省した珍しい歌もあります。
年ごとに人はやらへど目に見えぬ心の鬼はゆく方もなし
作者:賀茂保憲女
賀茂保憲女は平安中期の歌人。「心の鬼」を詠んだのが、女性であるところは示唆的です。
橘曙覧の鬼の短歌
吾(わが)歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓
灯火(ともしび)のもとに夜な夜な来たれ鬼我(わが)ひめ歌の限りきかせむ
人臭き人に聞(きか)する歌ならず鬼の夜ふけて来(こ)ばつげもせむ
凡人(ただひと)の耳にはいらじ天地(あめつち)のこころを妙に洩(も)らすわがうた
橘曙覧 -たちばなのあけみ-は江戸時代の歌人。
これらの歌に感じ入って、正岡子規が引用をしています。
意味は、それぞれ「私の歌を喜んで涙をこぼしているのだろう。鬼の泣く声が夜の窓に聞こえる。」
というもので、この「歌」というのは短歌のことです。
「わがひめ歌」とは「わが秘め歌」。
三首目は、「天地自然をここまで表している私の歌は、普通の世の凡人ではなく、鬼のようなものでなければわかるまい」とのことで、自ら「戯れ」の歌とは言っていますが、自分の作品に対する矜持も誇張されているとはいえ、本気でもあるのでしょう。
斎藤茂吉の鬼の短歌
豊酒(とよみき)の屠蘇に吾ゑへば鬼子(おにこ)ども皆死しにけり赤き青きも
作者:斎藤茂吉
お正月に無病長寿を願って飲まれるお屠蘇の由来は、「蘇」という悪鬼を屠るという説があり、それを詠んでいます。
、「くれなゐの茂吉」と呼ばれたくらい「赤」を読む込むとが多かった斎藤茂吉は、単に鬼とだけではなく「赤き青きも」と詠んでいるところがおもしろいですね。
歌集『赤光』の最初の秀作の頃にも、お寺の地獄極楽図を見て
いろいろの色の鬼ども集まりて蓮(はちす)の華にゆびさすところ
というのもありますが、色というものに極めて敏感なところがあったと思われます。
与謝野晶子の鬼の短歌
青春の鬼に再び守らるる禁獄の身となるよしもがな
作者:与謝野晶子
意味:青春という若い時の夢とそれを追いたい「鬼」というべき衝動にとらわれたあの時期をもう一度味わってみたい
与謝野晶子は、「鬼」という音場を象徴的に用いています。
それはやはり自分のうちにかつてあったものという自覚なのです。
現代短歌の豆まき
現代短歌の豆まきの歌は、案外見つかりませんで、下の作品をお読みください。
山崎方代の鬼の短歌
くろがねの錆びたる舌が垂れている鬼はいつでも一人である
作者:山崎方代
生涯、職につかず一人暮らしの孤独を通した山崎は、鬼の姿を絵か彫刻で見て、自分に重ねているようです。
久葉襄の豆まきの短歌
遣らふべき鬼まだ棲まぬみどりごのほとりへも撒く四、五粒の豆
作者:久葉襄
生れたばかりの新しい家族を迎えての豆まきの光景です。
そう、豆まきを追えれば、明日は新しい季節春を迎える「立春」の日となります。
それでは、皆様も今夜は、「鬼やらひ」を抜かりなく行ってくださいね。