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斎藤茂吉 死にたまふ母其の2 「はるばると」~「ひとり来て」短歌集『赤光』代表作

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斎藤茂吉「死にたまふ母」より其の2の歌と、歌の現代語訳、語の解説、鑑賞を一首ずつ記します。
このページは4ページある中の2ページ目です。歌の出典は改選版に拠ります。

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※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列していますので、そちらも合わせてご覧ください。

目次

死にたまふ母 その2

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其の二
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はるばると薬(くすり)をもちて来(こ)しわれを目守(まも)りたまへりわれは子なれば

 

【歌の意味と現代語訳】
はるばると薬を持ってやって来た私をじっと見てくださる母よ。私はその子であるからに

【歌の語句】

  • 目守(まも)る=見守ると同じ 見つめる じっと見る
  • たまへり  基本形「たまふ」は尊敬語。この章の題名の「死にたまふ母」と合わせて、作者は一貫して母に敬語を使った。
  • 来しは「こし」と読む

【表現技法】

4句切れ。結句は倒置

【解釈と鑑賞】

病状で話が良くできなかった母と、目を合わせた時の情景。
「われは子なれば」には、いろいろな解釈があるが、作者は小学校卒業と同時に他家に養子となっており、母とも離れて育った。それゆえに、母の逝去に対しても強い感慨があり、この連作が成り立ったのだともいえる。

あるいは、他家に養子に行ってしまったが、こうして駆け付けたからには、私も母の子であり、この母こそ私の生みの母である、と言いたい気持ちが作者にあったのかもしれない。あまり取り上げられることがないようだが、作者の心情を推し量りたい。

この歌の解説を読む

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寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば

 

【歌の意味と現代語訳】
横たわる母に寄り添っている私をじっと見て何かを言われる。私がこの母の子であるからだ。

【歌の語句】
「目守りて=前の歌に同じ。見つめる じっと見る
基本形「たまふ」は尊敬語。この章の題名の「死にたまふ母」と合わせて、作者は一貫して母に敬語を使った。

【表現技法】
3句4句切れと反復。結句は倒置

【解釈と鑑賞】
その一つ前の歌は「われを目守(まも)りたまへり」と、目でじっと見るだけであったが、ここでは、懸命に何か語り掛けようとする母の姿が、「言いたまふ何かいひたまふ」とそのままに読まれている。

「われは子なれば」の倒置法の効果にも注意して味わいたい。

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長押(なげし)なる丹(に)ぬりの槍に塵は見ゆ母の邊(べ)の我が朝目(あさめ)には見ゆ

 

【歌の意味と現代語訳】
長押に掛けてある赤い塗りの槍に塵が見える。母の近くに目ざめれば私の目にそれが見える。

【歌の語句】
長押・・・柱から柱へ渡して壁に取り付ける横木。板と壁との間に隙間があり、物などを置くことがある。
なる・・・〔断定の助動詞「なり」の連体形〕 名詞について「 にある」
朝目・・・朝目覚めて最初に目にしたものの意味。

作者本人が「いそげる」と手直ししたものだが、「脱臭したせいで無味乾燥になった」(品田)。

【表現技法】
3句切れ。「見ゆ」の反復

【解釈と鑑賞】
朝の光が斜めに差すと、部屋の中の塵が光り輝くように、よく見えることがある。朝目は朝いちばんに見えるものという意味なので、作者は母の隣か近くに布団の中で目が醒めて、ちょうどその視線の先に、赤い槍が見えた、その見たままを詠んだ歌である。

目が醒めて、これからまた母の見守りが始まる。その導入のような歌でもある。
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山いづる太陽光(たいやうくわう)を拝みたりをだまきの花咲きつづきたり

 

【歌の意味と現代語訳】
山より上る太陽の光を拝んでいた。外にはオダマキの花が咲き続けている。

【歌の語句】
オダマキは、キンポウゲ科の多年草。ミヤマオダマキとされる。色は薄紫。
このオダマキの花は、これより下の歌にも出てきて、各歌が時間的にもつながったものであるとの
印象を強めるものとなっている。

なお、初版の4、5句は「あかかりければいそぐなりけり」
茂吉が住んでいたのは東京であるので、「都」は東京を発つ時のことを差すと思われる。

【表現技法】
3句切れ。「拝みたり」の反復

【解釈と鑑賞】
山形の地なので、海ではなく奥羽山脈の向こう側に、山から太陽が上る土地柄であった。他の歌に山岳信仰ともいえる歌も見られる。朝日を拝むというのは、母が一日も欠かさず続けていた週間であった。

この歌と一つ上の歌とも同じリズムであって、両方とも断片的にものを言っており、歌というよりも、会話のようなものに近い雰囲気がある。

母を離れて、外部の状況に目を向け、周辺の状況をも、できるだけ報告しようとしているような感じもある。

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オダマキの花

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死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞ゆる

別ページに詳しく記載→

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ump桑の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪へがたければ母呼びにけり

 

【歌の意味と現代語訳】
桑の青くさい葉の香りが漂う明け方に、耐えがたくなって母を呼んだのだよ

【歌の語句】
朝明け・・・明け方 夜明け。

【表現技法】【解釈と鑑賞】

次第に遠ざかって行ってしまうような瀕死の母を何とかして呼び戻したい。その思いに胸が迫って、母に呼びかけたという状況だと思う。

「青 く」は、桑の匂いの感じをいったので、感じを生かすことにおいて驚くべき鋭敏さを作者は持っている。まだ人音のしずまっている暁に母を呼ぶというのが切実であり、一種の感動もそこにある。「堪へがたければ」という激情は、「桑の香の青くただよふ」によって切実さのうちにどこか清新さがあり、不思議な色調をたたえている。(「茂吉秀歌上」佐藤佐太郎)

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死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな

 

【歌の意味と現代語訳】
死の近づいている母の顔に近づいて、「苧環の花が咲いた」と言ったのであったよ

【歌の語句】
「死に」は「しに」で名詞。
目は前の歌にも出てくるが、母の顔、面、という意味。万葉集に用例がある。
「けるかな」は、けり+かな 両方詠嘆の助詞

【表現技法】
上句「死に/近き/母が/目に/寄り」は言葉が細かいのに対し、「いひにけるかな」で、「言った」を、結句七文字に一つの言葉を当てている。
結句に向かってゆっくりと、余韻が出るようになる。

【解釈と鑑賞】
先ほど一人で見たオダマキの花のことを、母に告げる。堪えがたい思いになった作者は、何でもよい、母に語りかけていたかったのだろう。母が自分の元から永遠に遠ざかってしまう前に。jump

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ばひかり流れてうらがなし今は野(ぬ)のべに蟆子(ぶと)も生(あ)れしか

 

【歌の意味と現代語訳】
春なので野辺には光が流れているのがうら悲しい。今は野原にブユも生まれた頃だろうか

【歌の語句】
蟆子(ぶと)・・・ブユともいう。蚊と同じ吸血する害虫だが、蚊よりも大型のもの。

【表現技法】
3句切れ。
べは「辺」 野辺 のべ  「野に」の意味。

【解釈と鑑賞】
母ではない外の情景を詠ったもの。やはり、「長押なる」「山いづる」と同様に、二文を合わせたような構成となっている。
独り言のような、思ったことを、ぽつりぽつりと言っているような雰囲気の歌。jump

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死に近き母が額(ひたひ)を撫(さす)りつつ涙ながれて居たりけるかな

 

【歌の意味と現代語訳】
死の近づいた母の額をさすりながら、いつか涙が出ていたのだったよ

【歌の語句】
「死に」は「しに」の名詞。
つつ・・・接続助詞
「ながら」の他、継続、反復を表しではなく、ここでは「さすりさすりして」の意味。
たりけるかな・・・ たり
けり+かな  は共に詠嘆の助詞

【表現技法】【解釈と鑑賞】
母に話しかけて、そのあとは母の額を撫でさする作者。「ながれて」の自動詞は、作者ではなく「涙」が主語になる。そうしていると気が付かない間に、自然と涙が流れていた、と理解する。

塚本邦雄は「おのづから滂沱と涙下る様は、この茂吉の語法で始めて活写された」という、注意すべき箇所である。

初版では3句は「霜ふれば」。jump

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母が目をしまし離(か)れ来て目守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり

 

【歌の意味と現代語訳】
母を離れてきてしばらく見ていたら、ああ、悲しいものだ。蚕がじっと眠っている様子は。

【歌の語句】
しまし・・・「しばし」に同じ
離れる・・・読みは「かれる」
あな・・・感動詞 喜び、悲しみ、うれしさ、怒りなどを強く感じて発する語。ああ。あら
もよ・・・「も」「よ」詠嘆の助詞

万葉集に4例のみとされ(品田悦一)、茂吉は他に「昼ごもり独りし寝れど悲しもよ夢を視るもよもの殺すゆめ」「いらだたしもよ朝の電車に乗りあへるひとのことごと罪なきごとし」と使ったものがある。

【表現技法】
4句と5句で句切れ。「あな悲しもよ」の感嘆句をはさんで倒置。

【解釈と鑑賞】
農家には養蚕のため蚕を飼っている部屋があって、そこへ一人で来てみたが、蚕の眠りを見ても母の昏睡の様子が頭を離れることはない。

意識がなく眠っているような母を、蚕の眠りへ焦点をずらし、「悲しい」と初めて言葉に思う作者の表白である。これを母に対して「悲しい」と言ったのであれば、言わずもがなであるだろう。

さらに詳しい解説は下に

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我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳足(ちた)らひし母よ

別ページに記載

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のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり

別ページに記載

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いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを

 

【歌の意味と現代語訳】
生きている人たちが集まって私の母の命が尽きて行くのを見ている。母が死んでゆくのを。

【歌の語句】
5句切れ 倒置

【表現技法】「死行く」は、文法的には正しくない言い方になる。
しかし、それゆえ人々の前に「口ごもっている」ような印象を与えると品田は言う。

【解釈と鑑賞】
塚本は「一連中にあって最も苦みのある、異様な一首」と評した。
親類他の人々が母を取り囲んで見守っているところで、一見その、人々にたいしての批判のようにも受け取れる。
だが塚本は、作者もその母の死を取り巻く一人であり、
母の死を傍観するしかない口惜しさをそのように表現しているという。

なお、初版本では「いのちある」の後ろ前に「のど赤き」が配置されていた。jump

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ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

 

【歌の意味と現代語訳】
母の居る部屋を一人離れて、蚕を飼う部屋に立っているとき、私の寂しさは極まっていったのだよ

【歌の語句】
「へや」は平仮名であり、漢字は用いられていない。

【表現技法】【鑑賞と解釈】

作者本人は「我が寂しさは極まりにけり」を「こういうのびのびとした詠嘆句は、その頃なかなか多く使った」と言っている。(「作歌四十年」)

 

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