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家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり 斎藤茂吉『ともしび』

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家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり

斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『ともしび』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

斎藤茂吉がどんな歌人かは、斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」 をご覧ください。

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家いでてわれは来(こ)しとき渋谷(しぶや)川(がは)に卵のからがながれ居(ゐ)にけり

歌の意味と現代語訳

家を出て私が来た時に渋谷川に卵の殻が流れていたのであったなあ

出典

「ともしび」大正14年

歌の語句

来(こ)し…来る+き(過去の助動詞)の文語の活用形なら「こし」
ながれ居にけり…流れ+いる+けり

・「けり」は詠嘆の助動詞

表現技法

句切れなし

 

解説と鑑賞

焼け跡に残った家を出て歩いてくると、川に卵の殻が流れているという情景だが、最近では、このような生活排水が流れる「川」というのは、あまり見かけなくなった。

焼け跡の瓦礫の中から、生活に必要なものはもちろん、焼け残った本なども取り出したりしたとあるので、「卵の殻」のような事物や、それが川を流れる情景とも、火事の後の生活と強く結びつくものであったのだろう。下の作者の言葉も参照のこと。

斎藤茂吉の自解

その頃稀に外出するにすぎなかったが、たまたま来てみると、かかる些かの光景にもひどく心を打たれたものである、亡くなった古泉千樫はその頃、アララギから脱退していたが、この歌を褒めて、斎藤は気分を捉えることを知っていると言った。しかし、気分を捉える捉えぬよりもいやおうなしにこうなって行ったのであった。(斎藤茂吉『作歌四十年』)

佐藤佐太郎の評

たまたま外出して、街中を流れている川を見て「卵のからがながれ」ているといったにすぎないが、この平凡な光景が不思議に切実な悲哀の感じを伴っている。

作者のいう意味は一首は技巧的に工夫したというよりも必然的な直観として表現したというので、これは短歌表現の根本でもある。瀬戸物のかけらが沈み、台所の屑などが流れている街川は、いかにも日本的なわびしい眺めとして新帰朝者の眼に映じたに相違ない。

さらに火難後の苦しい生活を背景としてみることによって「卵のから」が生活の寂しさというものを強く感じさせているのではあるまいか。大切なものは三句以下だが、一二句はそれを生かしている。古泉千樫のいう意味もそこにあるだろう。

「われは来しとき」の「は」は、やや耳立つようだが、全体にテニオハの多い歌だから、ここにアクセントを置くような表現によって歌調がしまっている。

「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

とどろきてすさまじき火をものがたる稚児(をさなご)のかうべわれは撫(な)でたり
やけのこれる家に家族(かぞく)があひよりて納豆餅(なつとうもちひ)くひにけり
やけあとのまづしきいへに朝々(あさあさ)に生きのこり啼(な)くにはとりのこゑ
焼あとにわれは立ちたり日は暮れていのりも絶(た)えし空(むな)しさのはて
かへりこし家にあかつきのちやぶ台(だい)に火焔(ほのほ)の香(か)する沢庵(たくあん)を食(は)む
家いでてわれは来(こ)しとき渋谷(しぶや)川(がは)に卵のからがながれ居(ゐ)にけり




-ともしび

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