斎藤茂吉は日本を代表するアララギ派の歌人、教科書にも掲載される短歌「死にたまふ母」の作者です。
斎藤茂吉の代表作短歌と作風の特徴である「写生」や「実相観入」についての解説をまとめます。
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斎藤茂吉とはどんな歌人か
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斎藤茂吉は日本を代表するアララギ派の歌人であり、歌集『赤光』の作者、特に教科書に掲載されている「死にたまふ母」の短歌で知られています。
この記事では、斎藤茂吉の短歌作品の特徴や作風を紹介します。
※斎藤茂吉の生涯と作品をコンパクトに読むには
斎藤茂吉とは 日本を代表するアララギの歌人
斎藤茂吉の短歌の特徴と作風
斎藤茂吉の短歌の特徴を一言でいうと、万葉調ということがまずあげられます。
この「万葉調」とは、斎藤茂吉の師である伊藤左千夫と左千夫が属する「根岸派」から受け継いだものです。
さらに、特に初期作品においては、斎藤茂吉の短歌は、当時として新しい雰囲気を伝えるものでした。
つまり近代的であったこと、それまでの短歌のイメージをはみ出すものでもあったということです。
初期には空想的傾向が目立つものがあり、語単位での固着が指摘されましたが、第二歌集の『あらたま』以後後に作風を転換、さらにアララギ派のコンセプトである「写生」の手法で凝縮されていきました。
後年は茂吉自らが「象徴的」というような、事実一辺倒に偏らない作風となっていきました。
一言でまとめると、
アララギ派の「写生」というというコンセプトを深め、のちに斎藤茂吉独自の「実相観入」を提唱。「象徴的」な境地に高めた。
斎藤茂吉の作風、それぞれについてさらに詳しく述べていきます。
斎藤茂吉の短歌の特徴1「万葉調」
処女歌集『赤光』にみられる斎藤茂吉の、初期の短歌の特徴は、「万葉調」と「近代化」です。
万葉調と近代化は一見相反することなのですが、万葉集にみられる言葉「万葉語」をたくさん使って歌を詠んだにもかかわらず、師の伊藤左千夫のように擬古的ではなく、その頃の新しい感覚を伝える作品として発展させました。
他の歌人は使わない古い言葉を使いながら、古臭くはならず、それが荘重な効果を上げている、これはやはり茂吉の独創的な点です。
万葉語の独自の使用
さらに言えば、茂吉の万葉調とは、万葉語を単に取り入れただけではなく、殊更に多用された上、独自のデフォルメを伴うことも指摘されています。
たとえば、品田悦一氏は斎藤茂吉『赤光』の「めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり」について、「居たれ」は万葉集にもみられる、いわゆる万葉語、「ひつそりと」は万葉集の時代にはない言葉であると分析を述べ
素性を異にする万葉語と非万葉語とが一首中に同居し、ぶつかり合い、互いの含蓄が齟齬をきたして不協和音を奏でる
として、これを斎藤茂吉の初期の特徴として指摘、この歌を、「ありふれた日常の一齣を異様な情景にすり替えてみせた作」とその魅力を解き明かしています。
短歌の調べや音の意識
また、短歌でいう「調べ」や「音調」への意識が高い点も斎藤茂吉の大きな特徴です。
音の音声上のつながりやうねりである短歌の調べ、そして、各言葉の音についても、他の歌人にはない細かい配慮や工夫がされています。
他に影響を受けたものとしては、同じアララギ派の歌人はもちろん、万葉集、特に、柿本人麻呂とその他の和歌、佐藤佐太郎が指摘する漢詩の影響などもありそうです。
他にも、梁塵秘抄や、ミレーなどの西洋絵画からの摂取などを茂吉自らがあげており、これらは、初期の短歌に於いて多く取り入れられました。
斎藤茂吉の短歌の特徴2「写生」
斎藤茂吉はアララギ派の歌人であり、アララギ派(根岸派)を始めた正岡子規の「写生」という短歌の技法であり理念を踏襲しました。
正岡子規の写生とは
「画家が天然自然を模写するときのように対象を精しく観察すべきこと、そして的確に言語化すべきこと」
ということに集約されます。
斎藤茂吉の写生説
対して、斎藤茂吉が「写生」について述べたものは、以下のように集約されます。
- 短歌は直ちに『生(いき)のあらはれ』でなければならぬ。従ってまことの短歌は自己さながらのものでなければならぬ。『いのちのあらはれ』明44年
- 自然を歌うのは性(ママ)名を自然に投射するのである。NaturBeseelung(自然に命を吹き込む)である。自然を写生するのは、即ち自己の生を映すのである『源実朝雑記』大正5年
- 予が真に写生すれば、それがすなわち夜の生の象徴たるのである。「写生、象徴の説」大正6年
- 写生は手段、方法、過程ではなくて、総和であり全体である。 「写生といふこと」大正8年
- 写生は実相観入によって生を映す謂である。 かの「生写(しょううつ)し」に通い、志那画家の用語例に通って、「生(しょう)を写す」の義だと謂ってもよく、「生命直射」の義と謂ってもよい。「生」とは「いのち」の義である。「写」とは「表現」の義である。(同)
- 短歌において主観的とか客観的とかいうことを気にせぬがよい。そして究 境(注:つちへんなしの感じ)の義に於ける「写生」でゆくがよい。「短歌に於ける主観の表現」大正8年
- 造形美術の場合、短歌ならば謂ゆる客観的短歌の場合に於いて、芸術家の活動をば、自己投入、感情移入、融合、同化過程、などの語を以て説明している。(同)
- 「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。」「短歌に於ける写生の説」(大正9年)
- 短歌の南陽方面において写生を唱える者にとっては、(中略)新しき実在、新しい 実相、”neueWirklichkeit"に観入するとき、 その短歌の声調もおのづからそれに伴うのが順序である。「短歌声調論」 昭和7年
斎藤茂吉のあげる写生の例
「短歌に於ける写生の説」における、実作の例は、絵画に始まり下のように、短歌の実例が挙げられます。
短歌になると感情の自然流露を表すこともまた自己の生を映すことになり、実相観入 になり、写生になるのである。
として、
あしひきの山川の瀬の響るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る
われはもや安見児得たり皆人の得難にすといふ安見児得たり
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
夕顔の棚つくらむと思へども秋待ちがねぬ我が命かも
いちはつの花先出でて我目には今年ばかリの春ゆかんとす
これらの歌は「共に写生である」とされ、「感情の流路が歌の上の写生でないなどという説は歌の本質上成立しない」と結論づけています。
「実相観入」の理念
斎藤茂吉はそれをさらに「実相観入」として、独自に進めていきました。
「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。」(大正9年)
辞書での定義は
表面的な写生にとどまらず、対象に自己を投入して、自己と対象とが一つになった世界を具象的に写そうとするもの。―大辞泉
「写生」と「実相観入」の説明はなかなか難しいのですが、事物をよく見てそのままに詠む、そこに自身を投影させる、という手法であり、よく茂吉の作品が「自然と一体になって」と評されている点もここにあります。
これについて詳しくは
実相観入とは 斎藤茂吉の短歌理念の解説
斎藤茂吉の短歌の功績
これまでに述べる特徴を備えた斎藤茂吉の短歌の処女歌集『赤光』は短歌界のみならず、文壇に多大な影響を与えました。
それ以後、斎藤茂吉は日本を代表する歌人として、その作品が教科書にも取り上げられています。
一般以上に、歌壇への影響も絶大で、当時は、斎藤茂吉の模倣をする歌人が多発、「死にたまふ母」の「しんしんと」などの言葉は、あたかも歌壇の流行語のようだったといいます。
斎藤茂吉は「歌聖」と呼ばれ、才能のある日本の歌人の代表の一人として知られるようになりました。
斎藤茂吉の出現は短歌結社アララギを有名にし、そこからたくさんの歌人を排出し、日本の近代短歌を確立するまでになったといえます。
短歌の天才として
現代短歌の歌人でもある塚本邦雄は、斎藤茂吉の『赤光』評において、『茂吉秀歌』の冒頭に斎藤茂吉を「天才」と記しています。
一首一首の、主題、意図するところは各論に詳述するとして、わずか7首を見ても、これが近代短歌、否近代文学の画期的な収穫であったことはおのずから明らかであろう。またそれは「近代」のみならず、「現代」においても重要な意味を持ち、影響するところは大きい。滅びの詩歌であった短歌は、その最後の炎上を、この天才の誕生によって試み、以後我々の見るのは、ことごとく余燼ではないかとさえ私は時として考えるのだ。―『茂吉秀歌』
「歌聖」の称号
さらに斎藤茂吉は「歌聖」の称号を冠し、「歌聖斎藤茂吉」と記されることもあります。
「歌聖(かせい)」 「うたのひじり」というのは、古今集の序文で紀貫之が記した言葉で、和歌に最もすぐれた人を尊んでいう時に用いられました。
古くは、柿本人麻呂、山部赤人を指す言葉ですが、斎藤茂吉にもこの言葉が記されることもありますが、上の塚本邦雄の言葉と合わせて考えると十分納得できることでしょう。
斎藤茂吉関連の本
文庫本の斎藤茂吉の歌集。
斎藤茂吉について詳しくお知りになりたい方は、品田悦一先生の本をおすすめします。
品田悦一先生による斎藤茂吉の短歌の細かい解析については、こちらの本がすぐれています。
上級者向け。
各歌集の解説は、佐藤佐太郎の新書は絶版。他に、塚本邦雄のものなら手に入ります。
おもしろく読めますが、こちらもやや上級者向きです。