斎藤茂吉 歌人と作品

斎藤茂吉『あらたま』の『梁塵秘抄』摂取は北原白秋『雲母集』を通じて行われた

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こんにちは。まる @marutanka です。

当ブログでは、斎藤茂吉の歌を年代順に一首ずつ解説を書きながらの鑑賞を進めています。今は斎藤茂吉の第二歌集である『あらたま』の作品を書いているところです。

『あらたま』作品の中のいくつかの作品は、その頃テキストが発見された『梁塵秘抄』の影響あると茂吉本人が述べています。
また、類似の影響は北原白秋の短歌作品にも見られるため、私は、茂吉と白秋それぞれが、『梁塵秘抄』を詠んで啓発を受け、相互に影響し合いながら詠んでいたものと思っておりました。

ところが、近年の研究によって、茂吉は『梁塵秘抄』から直接にではなく、白秋の作品を読み、そこから間接的、意図的に摂取を行ったというものを読み、いくらか驚きました。今日はそのことについて書き記しておきます。

 

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『あらたま』に先んじて出版された『雲母集』

斎藤茂吉の『あらたま』の最初の作品は大正3年のものから始まっています。北原白秋が第二歌集「雲母集」を出版したのが大正4年でした。

大正2年の頃は、さかんに手紙のやりとりが見られ、茂吉は「アララギ」への寄稿を依頼するなども含め、他のアララギの会員を含めて、白秋との交流があったようです。

作品を称賛する茂吉の白秋への手紙

大正3年には、『雲母集』を読んで感銘を受けたことが、茂吉より繰り返し書き送られます。

 

あれから貴君の作拝読しました。そして一つ一つ小生も膨大します。小生も何とかして歩みたいと思います。どうか見捨てずにいてください

 

今夕青山の書店にて偶然婦人評論という雑誌を見、大兄の歌発見せり、そうして驚きて小生の身より光が出んばかりに候。
このよろこびと心の張りを人に分けて遣るのが惜しいとおもう。右感謝まで

 

そのあと、夏の間に出された手紙。

まずは茂吉の歌作の不調を訴える内容。カタカナは通常の記載に直します。

 

この頃歌なんとしても具合悪く煩悶し居り候。この際貴家の芸術の光明に触れたし

 

御近作小生讃嘆します。なぜ、こういう讃光があるものを御詠みになるのかといろいろ考えています

 

そして、いずれの手紙も「光」「光明」「讃光」といった、白秋の『雲母集』のモチーフとなる「光」という言葉が入っています。

おそらく個々の手紙の日付けから対応して、茂吉が感銘を受けた白秋の作品というのは、『雲母集』所収の「臨海小景」「山中秋景」と言われています。

そして茂吉の方は、『赤光』出版後、歌作が不調であったことも、これらの手紙の内容からも伺えます。

 

白秋の歌の舞台である三浦へ

しかし、これらの歌をみて、すぐに影響を受けた、あるいは意図的に真似るというような単純なことではないのです。

そのあと茂吉は、実際に白秋の歌の舞台である三浦の海岸に出かけます。白秋の立ったのと同じ海辺にわざわざ行ってまで、白秋の歌の源泉を探ってみたいという思いは相当のものだったと思われます。

その時の茂吉の作が後に「海浜守命」「三崎行」としてなっています。

 

斎藤茂吉と『梁塵秘抄』

ここで問題にしたいのは、茂吉が単に、白秋の作品を摂取した、真似たというようなことではなく、茂吉自身の『梁塵秘抄』への思いがどうであったかということです。

驚いたことは、『あらたま』の解説や自註においては、さかんに『梁塵秘抄』への言及が出てくるのですが、茂吉自身は『梁塵秘抄』にそれほど感銘を受けたのではなかったのではないかという点です。

 

仏教に親しんだ茂吉

これについては、茂吉の方は、そもそも隣家が寺で、そこの僧侶であった和尚から薫陶を受けた、そのように幼少期から身近に仏典にも仏教の信仰に親しんだため、逆に『梁塵秘抄』へそれほど興味を引かれなかったのではないかということが要因として言われています。

つまり、『梁塵秘抄』は、仏教色の強いものではあっても、あくまで遊女の信仰心を歌った歌謡であって仏典でもなく、茂吉にとっては宗教的なものという感じは抱かせなかったのではないかという点です。

白秋の啓発

また、同時に『梁塵秘抄』に、茂吉はさほど文学的な牽引力も見い出せなかったという仮説も成り立ちます。茂吉にとって『梁塵秘抄』は、万葉集やその他の古典和歌とはまったく違う、ジャンルを異にするものであったのではないでしょうか。

白秋は、こちらは元々詩人でありながら歌も詠み、さらに童謡などジャンルは元々広い人でありますから、鑑賞するものも短歌一辺倒ではなく、多ジャンルからの摂取も抵抗がなかったと思われます。梁塵秘抄の影響にしても短歌だけでなく、同時期の詩、特に一行詩のような短詩の「真珠抄」にも明らかで、これにも茂吉は目を通していたと思われます。

『梁塵秘抄』から摂取し、詩や短歌として高めたものを通じて、初めて茂吉が『梁塵秘抄』を見直すに至ったのであれば、やはりそれは原典の『梁塵秘抄』にではなく、白秋の作品に惹かれたというべきで、茂吉が影響を受けたのは、あくまで白秋の短歌であったのだろうとも思われます。

そして、一見同一のものとも思える「光明」の要素としても、白秋が短歌として取り上げて、初めて文学の作品として生きるもの、茂吉に感銘を与え得るものとなったというところが、何より興味深いのです。

同時にそれは短歌というものの意味、ひいては文学のジャンルの重要な意義を示唆するものではないかとも思えます。

そして、それとまったく同様に、私も他の多くの人にとっても、白秋が茂吉に与えた影響と同じものを、また茂吉から私たちが受け取っているということも疑い得ないことなのです。

作品というのは、決してそれ単体でなり立つことではない。そして、一つの作品に触れるということは、単一の作品だけではなく、大きな流れの端に触れるということだということに気づかされるのです。

北原白秋『雲母集』より

下に白秋の『雲母集』より『梁塵秘抄』の影響があって、後年の茂吉の歌ともモチーフが共通するものを、いくらか挙げておきます。

おそらく茂吉の歌を見慣れた人ならば、これらの歌に通じるものが直ぐに思い浮かぶことと思います。

崖の上の歓語

帰命頂礼この時遥か海雀光りめぐると誰か知らめや

深淵
しんしんと淵に童が声すなれ瞰下(みお)ろせば何もなかりけるかも
いつまでも淵に潜りの影見えずあまり深くも潜りけむかも

山中秋景
山峡(やまかひ)に橋を架けむと耀くは行基菩薩か金色光(こんじきくわう)に

庭前小景
寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚たこ逃げてゆく真昼の光
海底(うなぞこ)の海鼠(なまこ)のそばに海胆(ひとで)居りそこに日の照る昼ふかみかも

法悦三品
ひさかたの金色光(こんじきくわう)の照るところ種蒔人(たねまき)三人(さんにん)背をかがめたり
虔(つつま)しきミレエが画(ゑ)に似る夕あかり種蒔人(たねまき)そろうて身をかがめたり

海光
金色こんじきの飛沫しぶきつめたく天そらをうつ大海だいかいの波は悲しかりけり
一心に舟を漕ぐ男遥はるに見ゆ金色の日がくるくると射さし

泥豚
豚小屋に呻(うめ)きころがる豚のかずいつくしきかもみな生けりけり
しんしんと湧きあがる力新らしきキヤベツを内(うち)から弾(は)ぢき飛ばすも

黍畑
森羅万象(ものなべて)寝しづみ紅(あか)きもろこしの房のみ動く醒めにけらしも

童子抄
何事の物のあはれを感ずらむ大海(だいかい)の前に泣く童あり
まんまろな朱(あけ)の日輪空にありいまだいつくし童があたま

 

 

 







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