『赤光』は、斎藤茂吉のもっとも最初の歌集であり、近代短歌に新しい局面を開いた代表的な歌集の一つです。
『赤光』の短歌全首を掲載します。『赤光』の中の教科書にも掲載される『死にたまふ母』など主要な作品の現代語訳と解説ページも表示します。
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『赤光』の短歌全首
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斎藤茂吉は作品が教科書にも掲載されている日本の代表的な歌人です。
斎藤茂吉の第一歌集の『赤光』は近代短歌に新しい局面を開いた代表的な歌集の一つで、芥川龍之介も絶賛する他、多くの歌人や短歌のみならず文人たちが影響を受けました。
『赤光』の短歌全首を掲載します。『赤光』の中の教科書にも掲載される『死にたまふ母』など主要な作品にてついては、現代語訳と解説ページがありますので、合わせて表示します。
「死にたまふ母」を読みたい方は
「死にたまふ母」斎藤茂吉「死にたまふ母」全短歌作品 現代語訳付き解説と鑑賞
斎藤茂吉がどんな歌人かは
斎藤茂吉 三時代を生きた「歌聖」
『赤光』の初版と改選版について
『赤光』には、初版と、改選版の2つがあります。
初版の方は師であった伊藤佐千夫の逝去の報を受けた「悲報来」で始まります。
これは、時間順で一番古い歌から、新しい歌に並べるという配置です。
一方、改選版は、明治38年の作品から年代順に並べられています。
このページで掲載するのは、改選版の方です。
斎藤茂吉の歌集解説『赤光』~『白き山』『つきかげ』まで各歌集の特徴と代表作
『赤光』の改選版の採用
このページで掲載するのは、改選版の方です。
斎藤茂吉自身は、今後の作品の引用に関しては、改選版を使用するようにと、「改選『赤光』跋」に下のように記載しています。
『赤光』の歌はすでにいろいろの書物に引用せられたけれども、今後『赤光』の歌を論ぜられる場合には、改選『赤光』の方に拠ってもらいたいと思う
しかし、斎藤茂吉の短歌を解説するにあたって、歌人の塚本邦雄が記した「茂吉秀歌」、品田悦一の斎藤茂吉の短歌の解説書「斎藤茂吉 異形の短歌」では、いずれも初版の方を採用しています。
『赤光』の初版と改選版の違い
『赤光』の初版と改選版は、歌の語句が大きく違っているものがあります。
初版と改選版の違いの例
初版:
世の色相(いろ)のかたはらにゐて狂者(きょうじゃ)もり黄なる涙は湧きいでにけり
改選版:
世の色相(いろ)のかたはらにゐて狂者(きょうじゃ)もり悲しき涙湧きいでにけり
ここから、『赤光』改選版の短歌の本文を提示します。
『赤光』の代表作だけをコンパクトに読みたい場合は
■『赤光』の解説短歌記事一覧
■『赤光』をコンパクトに読むには
『赤光』本文全文
赤光 斎藤茂吉
自 明治三十八年
至 明治四十二年
1 折に触れ 明治三十八年作
霜ふりて一(ひと)もと立(た)てる柿の木の柿はあはれに黒ずみにけり
浅草の仏(ほとけ)つくりの前来れば少女(をとめ)まぼしく落日(いりひ)を見るも
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書(ふみ)よみて賢(かしこ)くなれと戦場(せんぢやう)のわが兄(あに)は銭(ぜに)を呉(く)れたまひたり
戦場(せんぢやう)の兄(あに)よりとどきし銭(ぜに)もちて泣き居たりけり涙おちつつ
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馬屋(まや)のべにをだまきの花とぼしらにをりをり馬が尾を振りにけり
真夏日(まなつひ)の畑(はたけ)のなかに我(われ)居(を)りて戦(たたか)ふ兄(あに)をおもひけるかな
はるばると母は戦(いくさ)を思(おも)ひたまふ桑(くは)の木(こ)の実(み)の熟(う)める畑(はたけ)に
たらちねの母の辺(べ)にゐてくろぐろと熟(う)める桑(くは)の実(み)を食(く)ひにけるかな
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熱(ねつ)いでて一夜(ひとよ)寝(ね)しかばこの朝け梅のつぼみをつばらかに見つ
春風の吹くことはげし朝ぼらけ梅のつぼみは大(おほ)きかりけり
桑畑(くははた)の畑(はた)のめぐりに紫蘇(しそ)生(お)ひて断(ちぎ)りて居ればにほひするかも
入りかかる日の赤きころニコライの側(そば)の坂(さか)をば下(お)りて来にけり
寝て思へば夢(ゆめ)の如(ごと)かり山焼けて南の空はほの赤(あか)かりし
さ庭べの八重(やへ)山吹(やまぶき)の一枝(ひとえ)散りしばらく見ねばみな散りにけり
数学(すうがく)のつもりになりて考へしに五目(ごもく)ならべに勝ちにけるかも
かたむく日すでに真赤(まあか)くなりたりと物干(ものほし)に出でて欠(あくび)せりけり
ゆふさりてランプともせばひと時は心静(こころしづ)まりて何もせず居り
2 地獄極楽図 明治三十九年作
浄玻璃(じやうはり)にあらはれにけり脇差(わきざし)を差して女(をんな)をいぢめるところ
飯(いひ)の中(なか)ゆとろとろと上(のぼ)る炎(ほのほ)見てほそき炎口(えんく)のおどろくところ
赤き池にひとりぼつちの真裸(まはだか)のをんな亡者(まうじや)の泣きゐるところ
いろいろの色の鬼ども集りて蓮(はちす)の華(はな)にゆびさすところ
人の世に嘘(うそ)をつきけるもろもろの亡者(まうじや)の舌を抜き居(ゐ)るところ
罪計(つみはかり)に涙ながしてゐる亡者(まうじや)つみを計れば巖(いはほ)より重き
にんげんは牛馬(うしうま)となり岩負ひて牛頭馬頭(ごづめづ)どもの追ひ行くところ
をさな児の積みし小石を打くづし紺(こん)いろの鬼見てゐるところ
もろもろは裸(はだか)になれと衣剥(ころもは)ぐひとりの婆(ばば)の口赤きところ
白き華(はな)しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ
ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下(お)り来るところ
3 蛍と蜻蛉 明治三十九年作
蚕(こ)の部屋(へや)に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし
蚊帳のなかに放ちし蛍|夕(ゆふ)さればおのれ光りて飛びそめにけり
あかときの草の露玉(つゆたま)七いろにかがやきわたり蜻蛉(あきつ)うまれぬ
あかときの草に生(うま)れて蜻蛉(あきつ)はも未(いま)だ軟(やは)らかみ飛びがてぬかも
小田(をだ)のみち赤羅(あから)ひく日はのぼりつつ生(うま)れし蜻蛉(あきつ)もかがやきにけり
4 折に触れて 明治三十九年作
来て見れば雪消(ゆきげ)の川べしろがねの柳ふふめり蕗(ふき)の薹(たう)も咲けり (早春二首)
あづさゆみ春は寒けど日あたりのよろしき処つくづくし萌ゆ
生きて来(こ)し丈夫(ますらを)がおも赤くなり踊(をど)るを見れば嬉しくて泣かゆ (凱旋二首)
凱旋(かへ)り来て今日のうたげに酒をのむ海のますらをに髯あらずけり
み仏(ほとけ)の生(あ)れましの日と玉蓮(たまはちす)をさな朱(あけ)の葉池に浮くらし (仏生会二首)
み仏の御堂(みだう)に垂るる藤なみの花のむらさき未(いま)だともしも
青玉(あをたま)のから松の芽はひさかたの天(あめ)にむかひて並(なら)びてを萌ゆ (若芽二首)
はるさめは天(あめ)の乳(ちち)かも落葉松(からまつ)の玉芽(たまめ)あまねくふくらみにけり
みちのくの仏(ほとけ)の山のこごしこごし岩秀(いはほ)に立ちて汗ふきにけり (立石寺一首)
天(あめ)の露(つゆ)おちくるなべに現(うつ)し世(よ)の野べに山べに秋花咲けり
涅槃会(ねはんゑ)をまかりて来れば雪つめる山の彼方(かなた)に夕焼(ゆふやけ)のすも
小滝(こたき)まで行著(ゆきつ)きがてにくたびれし息(いき)づく坂よ山鳩のこゑ
夕ひかる里(さと)つ川水(かはみづ)夏くさにかくるる処まろき山見ゆ
淡青(たんじやう)の遠(とほ)のむら山たび来つるわが目によしと寝つつ見にけり
火の山を繞(めぐ)る秋雲(あきぐも)の八百雲(やほぐも)をゆらに吹きまく天つ風かも (蔵王山五首)
岩(いは)の秀(ほ)に立てばひさかたの天(あま)の川(がは)南に垂れてかがやきにけり
天(あめ)なるや群(むら)がりめぐる高(たか)ぼしのいよいよ清(きよ)し山高みかも
雲の中の蔵王(ざわう)の山は今もかもけだもの住まず石あかき山
あめなるや月読(つきよみ)の山(やま)はだら牛うち臥すなして目に入りにけり
病癒えし君がにぎ面(おも)の髯あたり目にし浮びてうれしくてならず (蕨真氏病癒ゆ)
5 虫 明治四十年作
花につく赤(あか)小蜻蛉(こあきつ)もゆふされば眠りにけらしこほろぎのこゑ
とほ世べの恋のあはれをこほろぎの語(かた)り部(べ)が夜々つぎかたりけり
月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒(みろく)は出でず虫鳴けるかも
ヨルダンの河のほとりに虫鳴くと書(ふみ)に残りて年ふりにけり
てる月の清き夜ごろを蟋蟀(こほろぎ)やねもころころに率寝(ゐね)て鳴くらむ
きのふ見し千草もあらず虫の音も空に消入(きえい)りうらさびにけり
あきの夜のさ庭に立てば土(つち)の虫音(ね)はほそほそと悲しらに鳴く
なが月の秋ゑらぎ鳴くこほろぎに螻蛄(けら)も交りてよき月夜かも
6 雲 明治四十年作
かぎろひの夕べの空に八重(やへ)なびく朱(あけ)の旗(はた)ぐも遠(とほ)にいざよふ
岩根ふみ天路(あめぢ)をのぼる脚底(あしそこ)ゆいかづちぐもの湧き巻きのぼる
蔵王(ざわう)の山はらにして目を放つ磐城(いはき)の諸嶺(もろね)くも湧ける見ゆ
底知らに瑠璃(るり)のただよふ天(あめ)の門(と)に凝(こ)れる白雲|誰(たれ)まつ白雲
岩ふみて吾(わが)立(た)つやまの火の山に雲せまりくる五百(いほ)つ白雲(しらくも)
遠(とほ)ひとに吾(わが)恋(こ)ひ居れば久かたの天(あめ)のたな雲(ぐも)に鶴(たづ)とびにけり
あめつちの寄り合ふきはみ晴れとほる高山(たかやま)の背(せ)に雲ひそむ見ゆ
八重山(やへやま)の八谷(やたに)かぜ起る時のまや峡間(はざま)みなぎりて雲たちわたる
たくひれのかけのよろしき妹(いも)が名(な)の豊旗雲(とよはたぐも)と誰(た)がいひそめし
小旗(こはた)ぐも大旗雲(おほはたぐも)のなびかひに今(いま)し八尺(やさか)の日(ひ)は入らむとす
いなびかりふくめる雲のたたずまひ物ほしにのぼりつくづくと見つ
ひと国(ぐに)をはるかに遠き天(あま)ぐもの氷雲(ひぐも)のほとり行くは何ぞも
雲に入る薬もがもと雲恋ひしもろこしの君は昔死にけり
ひむがしの天(あめ)の八重垣(やへがき)しろがねと笹べり耀(かがや)く渡津見(わたつみ)の雲
7 苅しほ 明治四十年作
秋のひかり土にしみ照り苅(かり)しほに黄(き)ばめる小田(をだ)を馬の来る見ゆ
竹おほき山べの村の冬しづみ雪降らなくに寒(かん)に入りけり
ふゆの日のうすらに照れば竹群(たかむら)は寒々(さむざむ)として霜しづくすも
窓の外(と)に月照りしかば竹の葉のさやのふる舞(まひ)あらはれにけり
霜の夜のさ夜のくだちに戸を押すや竹群(たかむら)が奥に朱(あけ)の月みゆ
竹むらの影にむかひて琴ひかば清掻(すががき)にしも弾(ひ)くべかりけり
月あかきもみぢの山に小猿ども天(あま)つ領巾(ひれ)など欲(ほ)りしてをらん
猿の子の目のくりくりを面白み日の入りがたをわがかへるなり
8 留守居 明治四十年作
まもりゐる縁(えん)の入日に飛びきたり蠅が手を揉(も)むに笑ひけるかも
留守居して一人し居れば青光(あをひか)る蠅のあゆみをおもひ無(な)に見し
留守をもるわれの机にえ少女(をとめ)のえ少男(をとこ)の蠅がゑらぎ舞ふかも
秋の日の畳の上に飛びあよむ蠅の行ひ見つつ留守すも
入日さすあかり障子(しやうじ)は薔薇(ばら)色(いろ)にうすら匂(にほ)ひて蠅一つ飛ぶ
事なくて見ゐる障子に赤とんぼかうべ動かす羽(はね)さへふるひ
まもりゐのあかり障子にうつりたる蜻蛉(あきつ)は去りて何も来ぬかも
留守もりて入日(いりひ)あかけれ紙ふくろ猫に冠(かむ)せんとおもほえなくに
9 新年の歌 明治四十一年作
今しいま年の来(きた)るとひむがしの八百(やほ)うづ潮(しほ)に茜(あかね)かがよふ
高ひかる日の母を恋ひ地(ち)の廻(めぐ)り廻(めぐ)り極まりて天(あめ)新たなり
東海(とうかい)に※[#「石+殷」、第3水準1-89-11](おの)馭廬(ごろ)生(あ)れていく継ぎの真日(まひ)美(うる)はしく天(あめ)明(あ)けにけり
ひむがしの朱(あけ)の八重ぐもゆ斑駒(ふちごま)に乗りて来(く)らしも年の若子(わくご)は
にひとしの真日(まひ)のうるはしくれないを高きに上り目蔭(まかげ)して見つ
10 雑歌 明治四十一年作
あかときの畑(はたけ)の土のうるほひに散れる桐の花ふみて来にけり
青桐(あをぎり)のしみみ広葉(ひろは)の葉かげよりゆふべの色はひろごるらしき
ひむがしのともしび二つこの宵(よひ)も相寄らなくてふけわたるかな
うつそみのこの世のくにに春さりて山焼くるかも天(あめ)の足夜(たりよ)を
ひさ方の天(あめ)の赤瓊(あかぬ)のにほひなし遥けきかもよ山焼くる火は
うつし世は一夏(いちげ)に入りて吾がこもる室(へや)の畳に蟻を見しかな
真夏日(まなつひ)の雲のみね天(あめ)のひと方(かた)に夕退(ゆふそ)きにつつかがやきにけり
荒磯(ありそ)ねに八重(やへ)寄る波のみだれたちいたぶる中(なか)の寂しさ思ふ
秋の夜の灯(ともし)しづかに揺るる時しみじみわれは耳かきにけり
ほそほそとこほろぎ鳴くに壁(かべ)にもたれ膝(ひざ)に手を組む秋の夜かも
旅ゆくと泉(いづみ)に下(お)りて冷々(ひやひや)に我が口そそぐ月くさのはな
11 塩原行 明治四十一年作
晴れ透(とほ)るあめ路(ぢ)の果てに赤城(あかぎ)嶺(ね)の秋の色はも更け渡りけり
小筑波(をつくば)を朝を見しかば白雲の凝れるかかむり動くともせず
関屋いでて坂路(さかぢ)になればちらりほらり染(そ)めたる木々(きぎ)が見えきたるかも
おり上(のぼ)り通(とほ)り過(す)がひしうま二つ遥かになりて尾を振るが見ゆ
山角(やまかど)にかへり見すれば歩み来し街道筋(かいだうすぢ)は細りてはるけし
馬車とどろ角(くだ)を吹き吹き塩はらのもみづる山に分け入りにけり
山路(やまぢ)わだ紅葉はふかく山たかくいよよ逼(せま)り来(く)わがまなかひに
つぬさはふ岩間(いはま)を垂るるいは水のさむざむとして土わけ行くも
とうとうと喇叭(らつぱ)を吹けば塩はらの深染(こぞめ)の山に馬車入りにけり
湯のやどのよるのねむりはもみぢ葉の夢(ゆめ)など見つつねむりけるかも
夕ぐれの川べに立ちて落ちたぎつ流るる水におもひ入りたり
あかときを目ざめて居ればくだの音(ね)の近くに止(や)みぬ馬車着けるらし
床ぬちにぬくまり居れば宿(やど)つ女(め)が起きねと云へど起きがてぬかも
世のしほと言(こと)のたふとさ名(な)に負(お)へる塩はらの山色づきにけり
谷川の音をききつつ分け入れば一あしごとに山あざやけし
山深くひた入り見むと露じもに染(そ)みし紅葉(もみぢ)を踏みつつぞ行く
三千尺(みちさか)の目下(ました)の極(きは)みかがよへる紅葉(もみぢ)のそこに水たぎち見ゆ
かへりみる谷の紅葉の明(あき)らけく天(あめ)にひびかふ山がはの鳴り
現(うつ)し身(み)が恋心(こひごころ)なす水の鳴りもみぢの中に籠(こも)りて鳴るも
山川(やまがは)のたぎちのどよみ耳底(みみぞこ)にかそけくなりて峰を越えつも
ふみて入るもみぢが奥は横(よこた)はる朽ち木の下を水ゆく音す
山がはの水のいきほひ大岩にせまりきはまり音とどろくも
うつそみは常(つね)なけれども山川に映(は)ゆる紅葉をうれしみにけり
うつし身は稀らにかよふ秋やまに親(した)しみて鳴く蟋蟀のこゑ
打ちわたす山の雑木(ざふぎ)の黄にもみぢ明(あか)るき峡(かひ)に道入りにけり
もみぢ原ゆふぐれしづむ蟋蟀はこの寂しさに堪へて鳴くなり
つかれより美(うつく)し夢(ゆめ)に入る如き思ひぞ吾がする蟋蟀のこゑ
もみぢ照りあかるき中に我が心空しくなりてしまし居りけり
しほ原の湯の出でどころとめ来ればもみぢの赤き処なりけり
山の湯のみなもとどころ鉄色(かねいろ)にさびにけるかな草もおひなく
鉄(かね)さびし湯の源(みなもと)のさ流に蟹がいくつも死にて居たりし
あまつ日は山のいただきを照らしたりふかき峡間(はざま)の道のつゆじも
親馬(おやうま)にあまえつつ来る仔馬(こうま)にし心動きて過ぎがてにせり
あしびきの山のはざまの西開き遠(とほ)くれないに夕焼くる見ゆ
橋のべのちひさ楓(かへるで)かへり路(ぢ)になかくれないと染めて居りけり
天地(あめつち)のなしのまにまに寄り合へる貝の石あはれとことはにして
ほり出(いだ)すいはほのひまの貝の石ただ珍らしみありがてぬかも
おくやまの深き岩間(いはま)ゆ海つもの石と成り出づ君に恋ふるとき
もみぢばの過ぎしを思ひ繁(しげ)き世(よ)に生きつるなべに悲しみにけり
山峡(やまかひ)のもみぢに深く相こもりほれ果てなむか峡(かひ)のもみぢに
もみぢ斑(ふ)の山の真洞(まほら)に雲おり来(く)雲はをとめの領巾(ひれ)濡らし来も
火に見ゆる玉手(たまで)の動き少女らは何(なに)に天降(あも)りてもみぢをか焚(た)く
天(あま)そそる白(しら)くもが上のいかし山
夜見(よみ)の国(くに)さび月かたむきぬ
まぼろしにもの恋ひ来れば山川(やまがは)の鳴る谷際(たにあひ)に月満てりけり
12 折に触れて 明治四十二年作
潮沫(しほなわ)のはかなくあらばもろ共にうづべの方(かた)にほろびてゆかむ
やうらくの珠(たま)はかなしと歎(なげ)かひし女(をみな)のこころうつらさびしも
宵あさくひとり籠ればうらがなし雨蛙(あまがへる)ひとつかいかいと鳴くも
をさな妻こころに守(まも)り更けしづむ灯火(ともしび)の虫を殺してゐたり
かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな
夏晴れのさ庭の木かげ梅の実のつぶらの影もさゆらぎて居り
春闌(はるた)けし山峡(やまかひ)の湯にしづ籠り(たら)の芽食(を)しつつひとを思はず
馬に乗り湯どころ来つつ白梅のととのふ春にあひにけるかも
ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見ればうれしも
干柿(ほしがき)を弟の子に呉れ居れば淡々(あはあは)と思ひいづることあり
ゆふぐれのほどろ雪路(ゆきみち)をかうべ垂れ濡れたる靴をはきて行くかも
世のなかの憂苦(うけく)も知らぬ女(め)わらはの泣くことはあり涙ながして
春の風ほがらに吹けばひさかたの天(あめ)の高低(たかひく)に凧が浮べり
萱(くわん)ざうの小さき萌(もえ)を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ
青山(あをやま)の町かげの田の畔(あぜ)みちをそぞろに来つれ春あさみかも
春あさき小田(をだ)の朝道(あさみち)あかあかと金気(かなけ)浮く水にかぎろひのたつ
明けがたに近き夜(よ)さまのおのづから我心(わがこころ)にし触るらく思ほゆ
天竺のほとけの世より子らが笑(ゑみ)にくからなくて君も笑むかな
さみだれはきのふより降り行々子(よしきり)をほのぼのやさしく聞く今宵(こよひ)かも
八百会(やほあひ)のうしほ遠鳴(とほな)るひむがしのわたつ天明(あまあけ)雲くだるなり
13 細り身 明治四十二年作
重かりし熱の病のかくのごと癒えにけるかとかひな撫(さす)るも
蜩蝉(かなかな)のまぢかくに鳴くあかつきを衰へはててひとり臥(ふ)し居り
あなうま粥(かゆ)強飯(かたいひ)を食(を)すなべに細りし息(いき)の太(ふと)りゆくかも
おとろへて寝床(ふしど)の上にものおもふ悲しきかなや蠅の飛ぶさへ
たまたまに現(うつ)しき時はわが命(いのち)生(い)きたかりしかこのうつし世に
病みて思ふほのぼのとしてあり経たる和世(にごよ)の我に悔(くい)は多かり
いはれ無(な)に涙がちなるこのごろを事更(ことさら)ぶともひと云ふらむか
しまし間も今の悶(もだ)えの酒狂(さかがり)になるを得ばかも嬉しかるべし
閉づる目ゆ熱き涙のはふり落ちはふり落ちつつあきらめ兼ねつ
やみ恍(ほほ)けおとろへにたれさ庭べに夕雨(ゆふさめ)ふれば嬉しくきこゆ
みちのくに我(われ)稚(をさな)くて熱を病みしことを仄(ほの)かに思ひいでつも
おとろへし胸に真手(まで)おき寂しめる我に聞ゆる蜩(ひぐらし)のこゑ
熱落ちて衰(おとろ)へ出で来(く)このごろの日八日(ひやか)夜八夜(よやよ)は現(うつ)しからなく
恣にやせ頬(ほほ)にのびし硬(こは)ひげを手(た)ぐさにしつつさ夜ふけにけり
うそ寒くなりて目ざめし室(へや)の外(と)は月清く照りかけ(注:鶏のこと。漢字出ず)なくきこゆ
かうべあげ見れば狭庭(さには)の椎の木(こ)の間(ま)おほき月入るよるは静かに
ぬば玉のふくる夜床(よどこ)に目ざむればをなご狂(きちがひ)の歌ふがきこゆ
日を継ぎて現身(うつしみ)さぶれ蝉の声もいよよ清(すが)しくなりにけるかな
おのが身しいとほしければかほそ身をあはれがりつつ飯(いひ)食(を)しにけり
火鉢べにほほ笑(わら)ひつつ花火する子供と居ればわれもうれしも
病みて臥すわが枕べに弟妹(いろと)らがこより花火をして呉れにけり
わらは等は汝兄(なえ)の面(おもて)のひげ振りのをかしなどいひ花火して居り
平凡に堪へがたき性(さが)の童幼(わらは)ども花火に飽きてみな去りにけり
とめどなく物思ひ居ればさ庭べに未だいはけなく蟋蟀鳴くも
宵浅き庭を歩めばあゆみ路(ぢ)のみぎりひだりに蟋蟀鳴くも
つめたき土にうまれし蟋蟀(こほろぎ)のまだいはけなく鳴ける寂しさ
さ庭べに何の虫ぞも鉦(かね)うちて乞ひのむがごとほそほそと鳴くも
なにゆゑに花は散りぬる理法(ことわり)と人はいふとも悲しくおもほゆ
たまゆらに仄(ほの)触(ふ)れにけれ延(は)ふ蔦(つた)の別れて遠しかなし子等はも
いつくしく瞬(またた)きひかる七星(ななほし)の高天(たかあめ)の戸にちかづきにけり
神無月(かみなづき)の土の小床(をどこ)にほそほそと亡(ほろ)びのうたを虫鳴きにけり
うらがれにしづむ花野の際涯(はたて)よりとほくゆくらむ霜夜こほろぎ
よひよひの露冷えまさる遠空をこほろぎの子らは死にて行くらむ
14 分病室 明治四十二年作
この度(たび)は死ぬかも知れずと思(も)ひし玉(たま)ゆら氷枕(ひようちん)の氷(こほり)とけ居たりけり
隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの実食ひたかりけり/斎藤茂吉『赤光』
熱落ちてわれは日ねもす夜もすがら稚(をさ)な児(ご)のごと物を思へり
のびあがり見れば霜月(しもつき)の月照りて一本松(いつぽんまつ)のあたまのみ見ゆ
明治四十三年
1 田螺と彗星
とほき世のかりようびんがのわたくし児|田螺(たにし)はぬるきみづ恋ひにけり
田螺はも背戸(せと)の円田(まろた)にゐると鳴かねどころりころりと幾つもゐるも
わらくづのよごれて散れる水無田(みなしだ)に田螺の殻は白くなりけり
気ちがひの面(おもて)まもりてたまさかは田螺も食べてよるに寝(い)ねたる
赤いろの蓮(はちす)まろ葉の浮けるとき田螺はのどにみごもりぬらし
味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が咽喉仏(のどぼとけ)うれしがり鳴る
ためらはず遠天(をんてん)に入れと彗星(すゐせい)の白きひかりに酒たてまつる
うつくしく瞬きてゐる星ぞらに三尺(みさか)ほどなるははき星をり
2 をさな妻
墓はらのとほき森よりほろほろと上(のぼ)るけむりに行かむとおもふ
をさな妻こころに持ちてあり経(ふ)れば赤(あか)小蜻蛉(こあきつ)の飛ぶもかなしき
目を閉づれすなはち見ゆる淡々し光に恋ふるもさみしかるかな
ほこり風立ちてしづまるさみしみを市路(いちぢ)ゆきつつかへりみるかも
このゆふべ塀にかわけるさび紅(あけ)のべにがら垂りをうれしみにけり
嘴(はし)小鳥さへこそ飛ぶならめはるばる飛ばば悲しきろかも
細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり
水(み)さびゐる細江(ほそえ)の面(おも)に浮きふふむこの水草はうごかざるかな
汗ばみしかうべを垂れて抜け過ぐる公園に今しづけさに会ひぬ
をさな妻ほのかに守(まも)る心さへ熱病みしより細りたるなれ
3 悼堀内卓
堀内はまこと死にたるかありの世かいめ世かくやしいたましきかも
信濃路のゆく秋の夜のふかき夜をなにを思(も)ひつつ死にてゆきしか
うつそみの人の国をば君去りて何辺(いづべ)にゆかむちちははをおきて
早(はや)はやも癒(なほ)りて来よと祈(の)むわれになにゆゑに逝きし一言(ひとこと)もなく
いまよりはまことこの世に君なきかありと思へどうつつにはなきか
深き夜のとづるまなこにおもかげに見えくる友をなげきわたるも
霜ちかき虫のあはれを君と居て泣きつつ聞かむと思ひたりしか (十月作)
明治四十四年
1 此の日頃
よるさむく火を警(いまし)むるひやうしぎの聞え来る頃はひもじかりけり
こよひはいまだ浅宵(あさよひ)なれど床ぬちにのびつつ何か考へむとおもふ
尺八(しやくはち)のほろほろと鳴りて行く音(おと)も此世(このよ)の涯(はて)に遠ざかりなむ
入りつ日の赤き光のみなぎらふ花野(はなの)はとほく恍(ほ)け溶(と)くるなり
さだめなきもののおそひ(*)の来る如く胸(むな)ゆらぎして街(まち)をいそげり
うらがなしいかなる色の光(ひかり)はや我(われ)のゆくへにかがよふらむか
生くるもの我のみならず現(うつ)し身の死にゆくを聞きつつ飯(いひ)食(を)しにけり
をさなごの独(ひと)り遊ぶを見守(みも)りつつ心よろしくなりてくるかも (一月作)
2 おくに
なにか言(い)ひたかりつらむその言(こと)も言(い)へなくなりて汝(なれ)は死にしか
はや死にて汝(なれ)はゆきしかいとほしと命(いのち)のうちにいひにけむもの
終(つひ)に死にて往(ゆ)かむ今際(いまは)の目にあはず涙(なみだ)ながらにわれは居(ゐ)るかな
なにゆゑに泣くと額(ぬか)なで虚言(いつはり)も死に近き子に吾(あ)は言へりしか
うつし世のかなしき汝(なれ)に死にゆかれ生きの命も今は力なし
もろ足(あし)もかいほそりつつ死にし汝(な)があはれになりてここに居(を)りがたし
ひとたびは癒(なほ)りて呉れよとうら泣きて千重にいひしがつひに空しき
この世にし生きたかりしか一念(いちねん)も申(まう)さず逝きしをあはれとおもふ
何(なに)も彼(か)もあはれになりて思ひづるおくにのひと世はみじかかりしか
せまりくる現実(うつつ)は悲ししまらくも漂(ただよ)ふごときねむりにゆかむ
やすらなる眠(ねむり)もがもと此の日ごろ眠(ねむり)ぐすりに親しみにけり
なげかひも人に知らえず極まれば何(なに)に縋(すが)りて吾(あ)は生きなむか
しみ到(いた)るゆふべのいろに赤くいる火鉢のおきのなつかしきかも
現身(うつしみ)のわれなるかなと歎(なげ)かひて火鉢をちかく身に寄せにけり
ちから無く鉛筆きればほろほろと紅(くれない)の粉(こ)が落ちてたまれり
灰のへにくれないの粉の落ちゆくを涙ながしていとほしむかも
生きてゐる汝(なれ)がすがたのありありと何(なに)に今頃見えきたるかや (一月作)
3 うつし身
雨にぬる広葉細葉の若葉森あが言ふこゑのやさしくきこゆ
いとまなき吾なればいま時の間の青葉の揺(ゆれ)も見むとしおもふ
しみじみとおのれ親しき朝じめり墓原(はかはら)の蔭に道ほそるかな
やはらかに濡れゆく森のゆきずりに生(いき)の命(いのち)の吾をこそ思へ
よにも弱き吾なれば忍ばざるべからず雨ふるよ若葉かへるで
うつしみは死しぬ此(かく)のごと吾(あ)は生きて夕(ゆふ)いひ食(を)しに帰りなむいま
黒土に足駄の跡のつづけるを墓のほそみちにかへり見にけり
うちどよむ衢(ちまた)のあひの森かげに残るみづ田をいとしくおもふ
青山の町蔭の田の水(み)さび田にしみじみとして雨ふりにけり
森かげの夕ぐるる田に白きとり海(うみ)とりに似(に)しひるがへり飛ぶ
寂し田に遠来(とほこ)し白鳥(しらとり)見しゆゑに弱ければ吾(あ)はうれしくて泣かゆ
くわん草(ざう)の丈(たけ)ややのびて湿(しめ)りある土に戦(そよ)げりこのいのちはや
はるの日のながらふ光に青き色ふるへる麦の嫉(ねた)くてならぬ
春浅き麦のはたけにうごく虫 手(た)ぐさにはすれ悲しみわくも
うごき行く虫を殺してうそ寒く麦のはたけを横ぎりにけり
いとけなき心|葬(はふ)りのかなしさに蒲公英(たんぽぽ)を掘るせとの岡べに
仄かにも吾に親しき予言(かねごと)をいはまくすらしき黄いろ玉はな (四月五月作)
4 うめの雨
おのが身をいとほしみつつ帰り来る夕細道(ゆふほそみち)に柿の花落つも
はかなき身も死にがてぬこの心君し知れらば共に行きなむ
さみだれのけならべ降れば梅の実の円(つぶら)大きくここよりも見ゆ
天(あめ)に戦(そよ)ぐほそ葉わか葉に群ぎもの心寄りつつなげかひにけり
かぎろひのゆふさりくれど草のみづかくれ水なれば夕光(ゆふひかり)なしや
ゆふ原の草かげ水にいのちいくる蛙(かへる)はあはれ啼きたるかなや
うつそみの命は愛(を)しとなげき立つ雨の夕原(ゆふはら)に音鳴(ねな)くものあり
くろく散る通草(あけび)の花のかなしさを稚(をさな)くてこそおもひそめしか
おもひ出も遠き通草の悲し花きみに知らえず散りか過ぎなむ
道のべの細川もいま濁りみづいきほひながる夜(よる)の雨ふり
汝兄(なえ)よ汝兄(なえ)たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも
あぶなくも覚束(おぼつか)なけれ黄いろなる円きうぶ毛が歩みてゐたり
見てを居り心よろしも鶏の子はついばみ乍(なが)らゐねむりにけり
庭つとり鶏(かけ)のひよこも心(うら)がなし生れて鳴けば母にし似るも
乳のまぬ庭とりの子は自(おの)づから哀(あは)れなるかもよ物(もの)食(は)みにけり
常のごと心足らはぬ吾ながらひもじくなりて今かへるなり
たまたまに手など触れつつ添ひ歩む枳殻(からたち)垣にほこりたまれり
ものがくれひそかに煙草すふ時の心よろしさのうらがなしかり
青葉空雨になりたれ吾はいまこころ細ほそと別れゆくかも
天さかり行くらむ友に口寄せてひそかに何かいひたきものを (五月六月作)
5 蔵王山
蔵王(ざわう)をのぼりてゆけばみんなみの吾妻(あづま)の山に雲のゐる見ゆ
たち上(のぼ)る白雲のなかにあはれなる山鳩啼けり白くものなかに
ま夏日の日のかがやきに桜実(さくらご)は熟(う)みて黒しもわれは食(は)みたり
あまつ日に目蔭(まかげ)をすれば乳いろの湛(たたへ)かなしきみづうみの見ゆ
死にしづむ火山(くわざん)のうへにわが母の乳汁(ちしる)の色のみづ見ゆるかな
秋づけばはらみてあゆむけだものも酸(さん)のみづなれば舌触りかねつ
赤蜻蛉(あきつ)むらがり飛べどこのみづに卵うまねばかなしかりけり
ひんがしの遠空(とほぞら)にして一すぢにひかりは悲し荒磯(ありそ)しらなみ (八月作)
6 秋の夜ごろ
玉きはる命(いのち)をさなく女童(めわらは)をいだき遊びき夜半(よは)のこほろぎ
こよひもひとりねむるとうつらうつら悲しき虫に聞きほくるなり
ことわりもなき物怨(ものうら)み我身にもあるが愛(いと)しく虫ききにけり
少年(せうねん)の流されびとをいたましとこころに思ふ虫しげき夜に
秋なればこほろぎの子の生(うま)れ鳴く冷たき土をかなしみにけり
少年の流され人はさ夜の小床に虫なくよ何の虫よといひけむ
かすかなるうれひにゆるるわが心蟋蟀聞くに堪へにけるかな
蟋蟀の音にいづる夜の静けさにしろがねの銭かぞへてゐたり
紅き日の落つる野末(のずゑ)の石(いし)の間(ま)のかそけき虫に聞き入りにけり
足もとの石のひまより静けさに顫ひて出づるこほろぎのこゑ
入りつ日の入りかくろへば露満つる秋野の末にこほろぎ鳴くも
うちどよむちまたを過ぎてしら露のゆふ凝る原にわれは来にけり
星おほき花原くれば露は凝りみぎりひだりにこほろぎ鳴くも
濠のみづ干(ひ)ゆけばここに細き水流れ会ふかな夕ひかりつつ
女(め)の童(わらは)をとめとなりて泣きし時かなしく吾はおもひたりしか
さにづらふ少女ごころに酸漿(ほほづき)の籠らふほどの悲しみを見し
こほろぎはこほろぎゆゑに露原に音をのみぞ鳴く音をのみぞ鳴く (九月作)
7 折に触れて
なみだ落ちて懐(なつか)しむかもこの室(へや)にいにしへ人は死に給ひにし (子規十周忌三首)
自(みづ)からをさげすみ果てし心すら此夜(このよ)はあはれ和(なご)みてを居ぬ
しづかに眼(め)をつむり給ひけむ自(おの)づからすべては冷(つめ)たくなり給ひけむ
涙ながししひそが事も消ゆるかや吾(あ)より秋なれば桔梗(きちかう)は咲きぬ (録三首)
きちかうのむらさきの花|萎(しぼ)む時わが身は愛(は)しとおもふかなしみ
さげすみ果てしこの身も堪へ難くなつかしきことありあはれあはれわが少女(をとめ)
栗の実の笑(ゑ)みそむるころ谿越えてかすかなる灯に向ふひとあり (録三首)
かどはかしに逢へるをとめの物語(ものがたり)あはれみにつつ谿越えにけり
死に近き狂人を守(も)るはかなさに己(おの)が身すらを愛(は)しとなげけり
照り透るひかりの中(なか)に消ぬべくも蟋蟀と吾(あ)となげかひにけり
つかれつつ目ざめがちなるこの夜ごろ寐(い)よりさめ聞くながれ水かな
朝さざれ踏みの冷めたくあなあはれ人の思(おもひ)の湧ききたるかも
秋川のさざれ踏み往き踏み来とも落ちゐぬ心君知るらむか
土のうえの生けるものらの潜(ひそ)むべくあな慌し秋の夜の雨
秋のあめ煙りて降ればさ庭べに七面鳥(しちめんてう)は羽もひろげず
寒ざむとひと夜の雨のふりしかば病める庭鳥をいたはり兼ねつ
ほそほそとこほろぎの音はみちのくの霜ふる国へとほ去りぬらむ
遠き世のガレーヌスは春のあけぼのOrnamentum lociをかなしみぬ。われは東海の国の伽羅の木かげPluma lociといひてなげかふ。
大正元年
1 睦岡山中
寒(さむ)ざむとゆふぐれて来る山のみち歩めば路(みち)は濡(ぬ)れてゐるかな
山ふかき落葉のなかに光り居る寂しきみづをわれは見にけり
しづかなる眼(まなこ)のごときひかりみづ山の木原(きはら)に動かざるかも
われひとり山を越えつつ見入りたる水はするどく寒くひかれり
都会(とくわい)のどよみをとほくこの水に口触(くちふ)れまくは悲しかるらむ
天(あま)さかる鄙(ひな)の山路にけだものの足跡(あしあと)を見ればこころよろしき
なげきより覚(さ)めて歩める山峡(やまかひ)に黒き木(こ)の実(み)はこぼれ腐(くさ)りぬ
寂しさに堪へて空(むな)しき吾(われ)の身(み)に何か触れて来(こ)悲しかるもの
ふゆ山に潜(ひそ)みて木末(こぬれ)のあかき実を啄(ついば)みてゐる鳥見つ今は
かぜおこる木原(きはら)をとほく入(いり)つ日(ひ)のあかき光はふるひ流るも
赤光(しやくくわう)のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきこころにか似む (一月作)
2 木の実
しろがねの雪ふる山にも人かよふ細(ほそ)ほそとして路(みち)見ゆるかな
満ち足らふ心にあらぬ谿谷(たに)つべに酢をふける木の実を食(は)むこころかな
山遠く入りても見なむうら悲しうら悲しとぞ人いふらむか
紅蕈(べにたけ)の雨にぬれゆくあはれさを人に知らえず見つつ来にけり
山ふかく谿の石原(いしはら)しらじらと見え来るほどのいとほしみかな
かうべ垂れ我がゆく道にぽたりぽたりと橡(とち)の木の実は落ちにけらずや
ひとり居(ゐ)て朝の飯(いひ)食む我が命(いのち)は短かからむと思(も)ひて飯(いひ)はむ (一月作)
3 或る夜
くれないの鉛筆きりてたまゆらは慎(つつま)しきかなわれのこころの
をさな妻をとめとなりて幾百日(いくももか)こよひも最早(もはや)眠りゐるらむ
寝(い)ねがてにわれ烟草すふ烟草すふ少女(をとめ)は最早(もはや)眠りゐるらむ
いま吾は鉛筆をきるその少女安心(あんしん)をして眠りゐるらむ
我友(わがとも)は蜜柑むきつつしみじみとはや抱(いだ)きねといひにけらずや
けだものの暖かさうな寝(いね)すがた思ひうかべて独り寝にけり
寒床(さむどこ)にまろく縮まりうつらうつら何時(いつ)のまにかも眠りゐるかな
水のべの花(はな)の小花(こばな)の散りどころ盲目(めしひ)になりて抱(いだ)かれて呉れよ (一月作)
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4 木こり
山腹(やまはら)の木はらのなかへ堅凝(かたこり)のかがよふ雪を踏みのぼるなり
ゆらゆらと空気を揺(ゆ)りて伐られたり斧の光れば大木(おほき)ひともと
斧ふりて木を伐る側(そば)に小夜(さよ)床(どこ)の陰(ほと)のかなしさ歌ひてゐたり
雪の上を行けるをみなは堅飯(かたいひ)と赤子(あかご)を背負(せお)ひうたひて行けり
雪のべに火がとろとろと燃えぬれば赤子(あかご)は乳(ちち)をのみそめにけり
杉の樹の肌(はだへ)に寄ればあなかなしくれないの油(あぶら)滲(し)み出(いづ)るかなや
はるばるも来つれこころは杉の樹の紅(あけ)の脂(あぶら)に寄りてなげかふ
みちのくの蔵王(ざわう)の山のやま腹にけだものと人と生きにけるかも (二月作)
5 犬の長鳴
よる更けてふと握飯(にぎりめし)くひたくなり握飯(にぎりめし)くひぬ寒がりにつつ
われひとりねむらむとしてゐたるとき外(そと)はこがらしの行くおときこゆ
遠く遠く流るるならむ灯をゆりて冬の疾風(はやち)は外面(とのも)に吹けり
長鳴くはかの犬族(けんぞく)のなが鳴くは遠街(をんがい)にして火かもおこれる
さ夜ふけと夜の更けにける暗黒(あんこく)にびようびようと犬は鳴くにあらずや (二月作)
6 さみだれ
さみだれは何(なに)に降(ふ)りくる梅の実は熟(う)みて落つらむこのさみだれに
にはとりの卵の黄味(きみ)の乱れゆくさみだれごろのあぢきなきかな
胡頽子(ぐみ)の果のあかき色ほに出づるゆゑ秀(ほ)に出づるゆゑに歎かひにけり (おくにを憶ふ)
ぬば玉のさ夜の小床(をどこ)にねむりたるこの現身(うつしみ)はいとほしきかな
しづかなる女おもひてねむりたるこの現身(うつしみ)はいとほしきかな
鳥の子のすもりに果てむこの心もののあはれと云はまくは憂(う)し
あが友の古泉(こいづみ)千樫(ちかし)は貧しけれさみだれの中をあゆみゐたりき
けふもまた雨かとひとりごちながら三州味噌をあぶりて食(は)むも (六月作)
7 折々の歌
とろとろとあかき落葉(おちば)火(ひ)もえしかば女(め)の男(を)の童(わらは)あたりけるかも
雨ひと夜さむき朝けを目(め)の下(もと)の死なねばならむ鳥見て立てり
ひとよ寝し街(まち)の悲しきひそみ土ここに白霜(しろしも)は降りてゐるかも
猫の舌のうすらに紅(あか)き手(て)ざはりのこの悲しさを知りそめにけり
ほのかなる茗荷(めうが)の花を目守(まも)る時わが思ふ子ははるかなるかも
をさな児の遊びにも似し我(あ)がけふも夕かたまけてひもじかりけり (研究室二首)
屈(かが)まりて脳の切片(せつぺん)を染(そ)めながら通草(あけび)のはなをおもふなりけり
みちのくの我家(わぎへ)の里(さと)に黒き蚕(こ)が二たびねぶり目ざめけらしも (故郷三首)
みちのくに病む母上(ははうへ)にいささかの胡瓜(きうり)を送る障(さは)りあらすな
おきなぐさに唇(くちびる)ふれて帰りしがあはれあはれいま思ひ出でつも
秋に入る練兵場(れんぺいぢやう)のみづたまりに小(こ)蜻蛉(あきつ)が卵を生みて居りけり
曼珠(まんじゆ)沙華(しやげ)ここにも咲きてきぞの夜のひと夜の相(すがた)おもほゆるかも
現身(うつしみ)のわれをめぐりてつるみたる赤き蜻蛉(とんぼ)が幾つも飛べり
酒の糟あぶりて室(むろ)に食(は)むこころ腎虚(じんきよ)のくすり尋ねゆくこころ
けふもまた向ひの岡に人あまた群れゐて人を葬(はふ)りたるかな
何ぞもとのぞき見しかば弟妹(いろと)らは亀に酒をば飲ませてゐたり
太陽(たいやう)はかくろひしより海空(うみぞら)に天(あめ)の血垂(ちた)りの雲のたなびき
狂院(きやうゐん)に寝てをれば夜は温(ぬ)るし我がまぢかくに蟾蜍(ひき)は啼きたり
伽羅(きやら)ぼくに伽羅(きやら)の果(み)こもりくろき猫ほそりてあゆむ夏のいぶきに
蛇(へび)の子(こ)は色くろぐろとうまれつつ石(いし)の間(ひま)にもかくろひぬらむ
ほそき雨墓原(はかはら)に降りぬれてゆく黒土に烟草の吸殻(すひがら)を投ぐ
墓はらを白(しろ)足袋(たび)はきて行けるひと遠く小さくなりにけるかも
萱草(くわんざう)をかなしと見つる目にいまは雨にぬれて行く兵隊が見ゆ
墓はらを歩み来にけり蛇の子を見むと来つれど春あさみかも
病院をいでて墓原かげの土踏めば何(なに)になごみ来しあが心ぞも
松風の吹きゐるところくれないの提灯つけて分け入りにけり
8 夏の夜空
墓原に来て夜空(よぞら)見つ目のきはみ澄み透りたるこの夜空(よぞら)かな
なやましき真夏(まなつ)なれども天(あめ)なれば夜空(よぞら)は悲しうつくしく見ゆ
きやう人(じん)を守(も)りつつ住めば星のゐる夜ぞらも久(ひさ)に見ずて経にけり
目をあげてきよき天(あま)の原(はら)見しかども遠(とほ)の珍(めづら)のここちこそすれ
ひさびさに夜空を見ればあはれなるかな星群れてかがやきにけり
空見ればあまた星居りしかれども弥々(いよいよ)とほくひかりつつ見ゆ
汗ながれてちまたの長路(ながぢ)ゆくゆゑにかうべ垂れつつ行けるなりけり
ひさびさに星空(ほしぞら)を見て居りしかば己(おの)れ親(した)しくなりてくるかも (七月作)
9 土屋文明へ
おのが身をあはれとおもひ山みづに涙落しし君を偲(しの)ばむ
ものみなの饐(す)ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞(きこ)ゆ
もの書かむと考へゐたれ耳ちかく蜩蝉(ひぐらし)なけばあはれに聞(きこ)ゆ
夕さればむらがりて来る油むし汗あえにつつ殺すなりけり
かかる時|菴羅(あんら)の木の実くひたらば心|落(おち)居(ゐ)むとおもふ寂しさ
むらさきの桔梗(ききやう)のつぼみ割りたれば蕊(しべ)現れてにくからなくに
秋ぐさの花さきにけり幾朝(いくあさ)をみづ遣りしかとおもほゆるかも
ひむがしのみやこの市路(いちぢ)をひとつのみ朝草(あさくさ)車(ぐるま)行けるさびしさ (七月作)
10 狂人守
うけもちの狂人(きやうじん)も幾たりか死にゆきて折(をり)をりあはれを感ずるかな
かすかにてあはれなる世(よ)の相(すがた)ありこれの相(すがた)に親しみにけり
くれないの百日紅(ひやくじつこう)は咲きぬれど此(この)きやうじんはもの云はずけり
としわかき狂人(きやうじん)守(も)りのかなしみは通草(あけび)の花の散らふかなしみ
気のふれし支那のをみなに寄り添ひて花は紅しと云ひにけるかな
このゆふべ脳病院の二階より墓地見れば花も見えにけるかな
ゆふされば青くたまりし墓みづに食血(じきけち)餓鬼(がき)は鳴きかゐるらむ
あはれなる百日紅(ひやくじつこう)の下かげに人力車(じんりき)ひとつ見えにけるかな (九月作)
11 海辺にて
真夏の日てりかがよへり渚(なぎさ)にはくれないの玉ぬれてゐるかな
海の香は山ふかき国に生(うま)れたる我のこころに染(し)まんとすらん
七(なな)夜(よ)寝て珠(たま)ゐる海の香をかげば哀れなるかもこの香いとほし
白なみの寄するなぎさに林檎食む異国(いこく)をみなはやや老いにけり
あぶらなす真夏(まなつ)のうみに落つる日の八尺(やさか)の紅(あけ)のゆらゆらに見ゆ
きこゆるは悲しきさざれうち浸(ひた)す潮波(うしほなみ)とどろ湧きたるならむ
岩かげに海ぐさふみて玉ひろふくれないの玉むらさき斑(ふ)のたま
百鳥(ももとり)はいまだは啼かねわたつみは黒光りして明けたるらむか
いささかの潮(しほ)のたまりに赤きもの生きて居たれば嬉しむかな
海の香はこよなく悲し珠ひろふわれのこころに染みにけるかも
桜実(さくらご)の落ちてありやと見るまでに赤き珠ゐる岩かげを来し
ながれ寄る沖つ藻見ればみちのくの春野(はるの)小草(をぐさ)に似てを悲しも
荒磯(ありそ)べに歎くともなき蟹の子の常(とこ)くれないに見ゆらむあはれ
かすかなる命(いのち)をもちて海つもの美(うつく)しくゐる荒磯(ありそ)べに来し
海のべを紅毛(こうまう)の子の走れるを心しづかに我は見て居り
くれないの三角の帆がゆふ海に遠ざかりゆくゆらぎ見えずも
月ほそく入りなむとする海(うみ)の上(うへ)ほの暗くして舟なかりけり
ぬば玉のさ夜ふけにして波(なみ)の穂(ほ)の青く光れば恋(こひ)しきものを
けふもまた岩かげに来つ靡(なび)き藻(も)に虎(とら)斑(ふ)魚の子かくろへる見ゆ
しほ鳴(なり)のゆくへ悲しと海のべに幾夜か寝つるこの海のべに (九月作)
12 郊外の半日
今しがた赤くなりて女中を叱りしが郊外に来て寒(さむ)けをおぼゆ
郊外はちらりほらりと人行きてわが息づきは和(なご)むとすらん
郊外に未(いま)だ落ちゐぬこころもて螇蚸(ばつた)にぎれば冷(つめ)たきものを
秋のかぜ吹きてゐたれば遠(をち)かたの薄(すすき)のなかに曼珠沙華赤し
ふた本の松立てりけり下かげに曼珠沙華赤し秋かぜが吹き
いちめんの唐辛子(たうがらし)畑(ばた)に秋のかぜ天(あめ)より吹きて鴉(からす)おりたつ
いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てる童(わらべ)のまなこ小さし
曼珠沙華咲けるところゆ相むれて現身(うつしみ)に似ぬ囚人は出づ
草の実はこぼれんとして居たりけりわが足元(あしもと)の日の光かも
赭土(はに)はこぶ囚人(しうじん)の眼(め)の光るころ茜さす日は傾きにけり
トロツコを押す一人(いちにん)の囚人はくちびる赤し我(われ)をば見たり
片方(かたはう)に松二もとは立てりしが囚(とら)はれ人(びと)は其処(そこ)を通りぬ
秋づきて小さく結(な)りし茄子の果を籠(こ)に盛る家の日向(ひなた)に蠅居り
女のわらは入日のなかに両手(もろて)もて籠(こ)に盛る茄子のか黒きひかり
天伝(あまつた)ふ日は傾きてかくろへば栗煮る家にわれいそぐなり
いとまなきわれ郊外(かうぐわい)にゆふぐれて栗飯|食(を)せば悲しこよなし
コスモスの闇にゆらげばわが少女(をとめ)天の戸に残る光を見つつ (十月作)
13 葬り火 黄涙余録の一
あらはなる棺(ひつぎ)はひとつかつがれて隠田(をんでん)ばしを今わたりたり
自殺せし狂者(きやうじや)の棺(かん)のうしろより眩暈(めまひ)して行けり道に入(いり)日(ひ)あかく
陸橋(りくけう)にさしかかるとき兵(へい)来れば棺(ひつぎ)はしまし地(つち)に置かれぬ
まなこよりわれの涙(なみだ)は漲(はふ)るとも人に知らゆな悲しきゆゑに
ひとねむるさ夜中にしてあな悲し狂人(きやうじん)の自(じ)殺(さつ)果てにけるはや
死なねばならぬ命(いのち)まもりて看護婦はしろき火かかぐ狂院のよるに
自(みづか)らのいのち死なんと直(ひた)いそぐ狂人を守(も)りて寝(い)ねざるものを
土のうへに赤楝蛇(やまかがし)遊ばずなりにけり入る日あかあかと草はらに見ゆ
歩兵隊|代々木(よよぎ)のはらに群れゐしが狂人(きやうじん)のひつぎひとつ行くなり
赤光(しやくくわう)のなかに浮びて棺(くわん)ひとつ行き遥(はる)けかり野は涯(はて)ならん
わが足より汗いでてやや痛みあり靴にたまりし土ほこりかも
火葬(くわさう)場(ば)に細みづ白くにごり来(く)も向(むか)うにひとが米を磨ぎたれば
死はも死はも悲しきものならざらむ目のもとに木の実落つたはやすきかも
両手(もろて)をばズボンの隠(かく)しに入れ居たりおのが身を愛(は)しと思はねどさびし
葬(はふ)り火は赤々と立ち燃ゆらんか我がかたはらに男|居(を)りけり
うそ寒きゆふべなるかも葬(はふ)り火(び)を守るをとこが欠伸(あくび)をしたり
骨瓶(こつがめ)はひとつを持ちて価(ね)を問へりわが口は乾くゆふさり来(きた)り
納骨(なふこつ)の箱は杉の箱にして骨(こつ)がめは黒くならびたりけり
上(うへ)野(の)なる動物園にかささぎは肉食ひゐたりくれないの肉を
おのが身しいとほしきかなゆふぐれて眼鏡(めがね)のほこり拭ふなりけり
14 冬来 黄涙余録の二
自殺せる狂者をあかき火に葬りにんげんの世に戦(をのの)きにけり
けだものは食(たべ)もの恋ひて啼き居たり何(なに)といふやさしさぞこれは
ペリカンの嘴(くちばし)うすら赤くしてねむりけりかたはらの水光(みづひかり)かも
ひたいそぎ動物園にわれは来(き)たり人のいのちをおそれて来(き)たり
わが目より涙ながれて居たりけり鶴(つる)のあたまは悲しきものを
けだもののにほひをかげば悲しくもいのちは明(あか)く息(いき)づきにけり
支那(しな)国(こく)のほそき少女(をとめ)の行きなづみ思ひそめにしわれならなくに
さけび啼くけだものの辺(べ)に潜(ひそ)みゐて赤き葬(はふ)りの火こそ思へれ
鰐の子も居たりけりみづからの命死なんとせずこの鰐の子は
くれないの鶴のあたまに見入りつつ狂(きやう)人(じん)守(もり)をかなしみにけり
はしきやし暁星学校(げうせいがくかう)の少年の頬(ほほ)は赤(あか)羅(ら)ひきて冬さりにけり
泥いろの山椒魚(さんせううを)は生きんとし見つつしをればしづかなるかも
除隊兵(ぢよたいへい)写真をもちて電車に乗りひんがしの空(そら)明けて寒しも
はるかなる南のみづに生れたる鳥ここにゐてなに欲(ほ)しみ啼く
15 柿乃村人へ 黄涙余録の三
この夜ごろ眠られなくに心すら細らんとして告げやらましを
たのまれし狂者(きやうじや)はつひに自殺せりわれ現(うつつ)なく走りけるかも
友のかほ青ざめてわれにもの云はず今は如何なる世の相(すがた)かや
おのが身はいとほしければ赤楝蛇(やまかがし)も潜みたるなり土の中(なか)ふかく
世の色相(いろ)のかたはらにゐて狂者(きやうじや)もり悲しき涙湧きいでにけり
やはらかに弱きいのちもくろぐろと甲(よろ)はんとしてうつつともなし
寒ぞらに星ゐたりけりうらがなしわが狂院をここに立ち見つ
かの岡に瘋癲院のたちたるは邪宗(じやしゆう)来(らい)より悲しかるらむ
みやこにも冬さりにけり茜(あかね)さす日向(ひなた)のなかに髭剃りて居る
遠国(をんごく)へ行かば剃刀(かみそり)のひかりさへ馴れて親(した)しといへば歎(なげ)かゆ (十一月作)
16 ひとりの道
霜ふればほろほろと胡麻(ごま)の黒き実の地(つち)につくなし今わかれなむ
夕(ゆふ)凝(こ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人(ひとり)のゆゑにこころ安けし
ながらふるさ霧のなかに秋花(あきはな)を我(われ)摘まんとす人に知らゆな
白雲は湧きたつらむか我(われ)ひとり行かむと思ふ山のはざまに
神(かみ)無(な)月(づき)空の際涯(はて)よりきたるとき眼(め)ひらく花はあはれなるかも
ひとりなれば心安けし谿ゆきて黒き木(こ)の実(み)も食ふべかりけり
ひかりつつ天(あめ)を流るる星あれど悲しきかもよわれに向はず
おのづからうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入(いり)日(ひ)赤きに
いのち死にてかくろひ果つるけだものを悲しみにつつ峡(かひ)に入りつも
みなし児の心のごとし立ちのぼる白雲の中に行かむとおもふ
もみぢ斑(ふ)に照りとほりたる日の光りはざまにわれを動かざらしむ
わが歩みここに極まり雲くだるもみぢ斑(ふ)のなかに水のみにけり
はるけくも山がひに来て白樺に触(さは)りて居たり冷たきその幹
ひさかたの天のつゆじもしとしとと独り歩まむ道ほそりたり (十一月作)
17 青山の鉄砲山
赤き旗けふはのぼらずどんたくの鉄砲山(てつぱうやま)に小供らが見ゆ
日だまりの中(なか)に同様(どうやう)のうなゐらは皆走りつつ居たりけるかも
銃丸(じゆうぐわん)を土より掘りてよろこべるわらべの側(そば)を行き過(よ)ぎりけり
青竹を手に振りながら童(どう)子(じ)来て何か落ちゐぬ面持(おももち)をせり
ゆふ日とほく金(きん)にひかれば群童(ぐんどう)は眼(め)つむりて斜面(しやめん)をころがりにけり
群童(ぐんどう)が皆ころがれば丘(をか)のへの童女(どうぢよ)かなしく笑ひけるかも
いちにんの童子(どうじ)ころがり極まりて空見たるかな太陽(たいやう)が紅し
射的(しやてき)場(ば)に細みづ湧きて流れければ童(わらべ)ふたりが水のべに来し (十月作)
18 折に触れて
くろぐろと円(つぶ)らに熟(う)るる豆柿(まめがき)に小鳥はゆきぬつゆじもはふり
蔵王(ざわう)山(さん)に雪かも降るといひしときはや斑(はだら)なりといらへけらずや
狂者らはPaederastieをなせりけり夜しんしんと更けがたきかも
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
をりをりは脳解剖書(のうかいぼうしよ)読むことありゆゑ知らに心つつましくなり
水のうへにしらじらと雪ふりきたり降りきたりつつ消えにけるかも
身ぬちに重大(ぢゆうだい)を感ぜざれども宿直(とのゐ)のよるにうなじ垂れゐし
この里(さと)に大山(おほやま)大将住むゆゑにわれの心の嬉しかりけり (十二月作)
19 雪ふる日
かりそめに病みつつ居ればうらがなし墓はらとほく雪つもる見ゆ
現身(うつしみ)のわが血脈(けちみやく)のやや細り墓地(ぼち)にしんしんと雪つもる見ゆ
あま霧(ぎら)し雪ふる見れば飯(いひ)をくふ囚人(しうじん)のこころわれに湧きたり
わが庭に鶩(あひる)ら啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに
ひさかたの天(あめ)の白雪(しらゆき)ふりきたり幾とき経ねばつもりけるかも
枇杷(びは)の木(き)の木(こ)ぬれに雪のふりつもる心|愛憐(あはれ)みしまらくも見し
さにはべの百日紅(ひやくじつこう)のほそり木に雪のうれひのしらじらと降る
天つ雪はだらに降れどさにづらふ心にあらぬ心にはあらぬ (十二月作)
20 宮益坂
向うにも女(をんな)は居たり青き甕(かめ)もち童子(どうじ)になにかいひつけしかも
馬に乗りて陸軍将校きたるなり女難(ぢよなん)の相(さう)か然にあらじか (十二月作)
大正二年
1 さんげの心
雪のなかに日の落つる見ゆほのぼのと懺悔(さんげ)の心(こころ)かなしかれども
こよひはや学問(がくもん)したき心起りたりしかすがにわれは床にねむりぬ
風(かぜ)ひきて寝(ね)てゐたりけり窓(まど)の戸(と)に雪ふる聞ゆさらさらといひて
あわ雪は消(け)なば消(け)ぬがに降りたれば眼(まなこ)悲(かな)しく消(け)ぬらくを見(み)む
腹ばひになりて朱(しゆ)の墨すりしころ七面鳥に泡雪(あわゆき)は降りし
ひる日中(ひなか)床(とこ)の中(なか)より目をひらき何か見つめんと思ほえにけり
雪のうへ照る日光(につくわう)のかなしみに我がつく息(いき)はながかりしかも
赤電車(あかでんしや)にまなこ閉(と)づれば遠国(をんごく)へ流れて去なむこころ湧きたり
家(いへ)ゆりてとどろと雪はなだれたり今宵(こよひ)は最早(もはや)幾時(いくとき)ならむ
しんしんと雪(ゆき)ふる最上(もがみ)の上(かみ)の山(やま)に弟は無常(むぢやう)を感じたるなり
ひさかたの光(ひかり)に濡(ぬ)れて縦(よ)しゑやし弟は無常(むぢやう)を感じたるなり
電燈(でんとう)の球(たま)にたまりしほこり見ゆすなはち雪はなだれ果(は)てたり
天(あま)霧(ぎ)らし雪ふりてなんぢが妻は細りつつ息(いき)をつかむとすらし
あまつ日(ひ)に屋上(をくじやう)の雪かがやけりしづごころなきいまのたまゆら
しろがねのかがよふ雪に見入(みい)りつつ何(なに)を求(もと)めむとする心ぞも
いまわれはひとり言(ごと)いひたれども哀(あは)れあはれかかはりはなし
ゆふぐれて心せはしく街(まち)ゆけば街(まち)には女(をんな)おほくゆくなり (一月作)
2 根岸の里
にんげんの赤子(あかご)を負(お)へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
日あたれば根岸(ねぎし)の里の川べりの青蕗(ををふき)のたう揺(ゆ)りたつらむか
くれたけの根岸(ねぎし)里(さと)べの春浅み屋上(をくじやう)の雪(ゆき)凝(こ)りてかがよふ
角兵衛(かくべゑ)のをさな童(わらべ)のをさなさに足をとどめて我は見んとす
笛(ふえ)の音(ね)のとろりほろろと鳴りひびき紅色(こうしよく)の獅子(しし)あらはれにけり
いとけなき額(ひたひ)のうへにくれないの獅子(しし)の頭(かうべ)を持つあはれさよ
春のかぜ吹きたるならむ目(め)のもとの光(ひかり)のなかに塵うごく見ゆ
ながらふる日光(につくわう)のなか一(ひと)いろに我(われ)のいのちのめぐるなりけり (一月作)
3 きさらぎの日
狂院(きやうゐん)を早くまかりてひさびさに街(まち)をあゆめばひかり目(め)に染(し)む
平凡(へいぼん)に涙をおとす耶蘇(やそ)兵士(へいし)あかきじやけつを着(き)つつ来にけり
きさらぎの天(あま)つひかりに飛行船(ひかうせん)ニコライ寺(でら)のうへを走れり
杵(きね)あまた並(なら)べばかなし一様(いちやう)につぼの白米(しろごめ)に落ちにけるかも
もろともに天(てん)を見上(みあ)げし耶蘇(やそ)士官(しくわん)あかきじやけつを着たりけるかも
まぼしげに空に見入(みい)り女(をんな)あり黄色(くわうしよく)のふね天(あま)馳(は)せゆけば
二月(にぐわつ)ぞらに黄(き)いろの船の飛べるときしみじみとして女(をみな)をぞおもふ
この身はも何か知らねどいとほしく夜(よる)おそくゐて爪きりにけり (二月作)
4 神田の火事
これやこの昨日(きぞ)の夜(よ)の火に赤かりし跡どころなれや烟(けむり)立(た)ち見(み)ゆ
天(あめ)明(あ)けし焼跡(やけあと)どころ燃えかへる火中(ほなか)に音の聞えけるかも
亡(ほろ)ぶるものは悲しけれども目の前にかかれとてしも赤き火にほろぶ
たちのぼる灰燼(くわいじん)のなかに黒(くろ)眼鏡(めがね)しろき眼鏡(めがね)を売るぞ寂しき
あきうどは眼鏡(めがね)よろしと言(こと)あげてみづからの目に眼鏡(めがね)かけたり
5 口ぶえ
このやうに何(なに)に顴骨(ほほぼね)たかきかや触(さや)りて見ればをみななれども
この夜(よる)をわれと寝(ぬ)る子のいやしさのゆゑ知らねども何か悲しき
目をあけてしぬのめごろと思ほえばのびのびと足をのばすなりけり
ひんがしはあけぼのならむほそほそと口笛ふきて行く童子(どうじ)あり
あかねさす朝明(あさあけ)ゆゑにひなげしを積みし車に会ひたるならむ (五月作)
6 おひろ 其の一
なげかへばものみな暗(くら)しひんがしに出づる星さへあかからなくに
とほくとほく行きたるならむ電燈(でんとう)を消せばぬばたまの夜(よる)も更(ふ)けぬる
夜(よる)くれば小(さ)夜床(よどこ)に寝しかなしかる面(おも)わも今は無しも小床(をどこ)も
かなしみてたどきも知らず浅草の丹塗(にぬり)の堂にわれは来にけり
あな悲し観音堂(くわんのんだう)に癩者(らいしや)ゐてただひたすらに銭(ぜに)欲りにけり
浅草に来てうで卵買ひにけりひたさびしくてわが帰るなる
はつはつに触(ふ)れし子ゆゑにわが心(こころ)今は斑(はだ)らに嘆きたるなれ
代々木野(よよぎの)をひた走りたりさびしさに生(いき)の命(いのち)のこのさびしさに
さびしさびしいま西方(さいはう)にゆらゆらと紅(あか)く入る日もこよなく寂し
紙屑を狭庭(さにわ)に焚けばけむり立つ恋(こほ)しきひとは遥かなるかも
ほろほろとのぼるけむりの天(てん)にのぼり消(き)え果つるかに我も消(け)ぬかに
ひさかたの悲天(ひてん)のもとに泣きながらひと恋ひにけりいのちも細く
放(はふ)り投(な)げし風呂敷包ひろひ持ち抱(いだ)きてゐたりさびしくてならぬ
ひつたりといだきて悲しひとならぬ瘋癲学(ふうてんがく)の書(ふみ)のかなしも
うづ高く積みし書物(しよもつ)に塵たまり見の悲しもよたどき知らねば
つとめなればけふも電車に乗りにけり悲しきひとは遥かなるかも
この朝け山椒(さんせう)の香(か)のかよひ来てなげくこころに染(し)みとほるなれ
其の二
ほのぼのと目を細くして抱(いだ)かれし子は去りしより幾夜(いくよ)か経(へ)たる
愁ひつつ去(い)にし子ゆゑに藤のはな揺(ゆ)る光さへ悲しきものを
しらたまの憂(うれひ)のをみな我(あ)に来(きた)り流るるがごと今は去りにし
かなしみの恋にひたりてゐたるとき白藤の花咲き垂りにけり
夕やみに風たちぬればほのぼのと躑躅(つつじ)の花は散りにけるかも
おもひ出は霜ふる谿に流れたるうす雲の如くかなしきかなや
あさぼらけひとめ見しゆゑしばだたくくろきまつげをあはれみにけり
しんしんと雪ふりし夜にその指(ゆび)のあな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか
狂院の煉瓦のうへに朝日子のあかきを見つつなげきけるかな
わが生(あ)れし星を慕ひしくちびるの紅(あか)きをみなをあはれみにけり
わが命(いのち)つひに光りて触りしかば否(いな)といひつつ消ぬがにも寄る
彼(か)のいのち死去(しい)ねと云はばなぐさまめ我(われ)の心は云ひがてぬかも
すり下(おろ)す山葵(わさび)おろしゆ滲(し)みいでて垂る青(あを)みづのかなしかりけり
啼くこゑは悲しけれども夕鳥(ゆふどり)は木に眠るなりわれは寝(ね)なくに
其の三
愁(うれ)へつつ去(い)にし子ゆゑに遠山(とほやま)にもゆる火ほどの我(あ)がこころかな
あはれなる女(をみな)の瞼(まぶた)恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり
このこころ葬らんとして来(きた)りつる畑(はたけ)に麦は赤らみにけり
夏
農園(のうゑん)に来て心ぐし水すましをばつかまへにけり
藻のなかに潜(ひそ)むゐもりの赤き腹はつか見そめてうつつともなし
麦の穂に光のながれたゆたひて向(むか)うに山羊は啼きそめにけり
この心葬(はふ)り果てんと秀(ほ)の光る錐(きり)を畳に刺しにけるかも
わらぢ虫たたみの上に出で来(こ)しに烟草のけむりかけて我(わが)居(を)り
念々(ねんねん)にをんなを思ふわれなれど今夜(こよひ)もおそく朱(しゆ)の墨(すみ)するも
この雨はさみだれならむ昨日(きのふ)よりわがさ庭べに降りてゐるかも
つつましく一人し居れば狂院(きやうゐん)のあかき煉瓦(れんぐわ)に雨のふる見ゆ
瑠璃(るり)いろにこもりて円(まる)き草(くさ)の実(み)は悲しき人のまなこなりけり
ひんがしに星いづる時汝(な)が見なばその目ほのぼのとかなしくあれよ (五月六月作)
7 死にたまふ母 其の一
ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ
白ふじの垂花(たりはな)ちればしみじみと今はその実の見えそめしかも
うちひさす都(みやこ)の夜(よる)にともる灯(ひ)のあかきを見つつこころ落ちゐず
ははが目を一目(ひとめ)を見んと急ぎたるわが額(ぬか)のへに汗いでにけり
灯(ともし)あかき都をいでてゆく姿(すがた)かりそめの旅と人見るらんか
たまゆらに眠(ねむ)りりしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや
吾妻(あづま)やまに雪かがやけばみちのくの我が母の国に汽車入りにけり
朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて母にちかづく汽車走るなり
沼の上にかぎろふ青き光よりわれの愁(うれへ)の来(こ)むと云ふかや (白竜湖)
上(かみ)の山(やま)の停車場に下り若(わか)くしていまは鰥夫(やもを)のおとうとを見たり
其の二
はるばると薬(くすり)をもちて来(こ)しわれを目守(まも)りたまへりわれは子(こ)まれば
寄り添へる吾を目守(まも)りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば
長押(なげし)なる丹(に)ぬりの槍に塵は見ゆ母の辺(べ)の我が朝目(あさめ)には見ゆ
山いづる太陽光(たいやうくわう)を拝みたりをだまきの花咲きつづきたり
桑の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪(た)へがたければ母呼びにけり
死に近き母が目(め)に寄(よ)りをだまきの花咲きたりといひにけるかな
春なればひかり流れてうらがなし今は野(ぬ)のべに蟆子(ぶと)も生(あ)れしか
死に近き母が額(ひたひ)を撫(さす)りつつ涙ながれて居たりけるかな
母が目をしまし離(か)れ来て目守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり
我(わ)が母よ死にたまひゆく我(わ)が母よ我(わ)を生(う)まし乳足(ちた)らひし母よ
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを
ひとり来て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我(わ)が寂しさは極まりにけり
其の三
楢若葉(ならわかば)てりひるがへるうつつなに山蚕(やまこ)は青く生(あ)れぬ山蚕は
日のひかり斑(はだ)らに漏りてうら悲(がな)し山蚕は未(いま)だ小さかりけり
葬(はふ)り道(みち)すかんぼの華(はな)ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや
おきな草 口(くち)あかく咲く野の道に光ながれて我(われ)ら行きつも
わが母を焼かねばならぬ火を持てり天(あま)つ空(そら)には見るものもなし
さ夜ふかく母を葬(はふ)りの火を見ればただ赤くもぞ燃えにけるかも
はふり火を守(まも)りこよひは更けにけり今夜(こよひ)の天(てん)のいつくしきかも
火を守(も)りてさ夜ふけぬれば弟は現身(うつしみ)のうたかなしく歌ふ
ひた心目守(まも)らんものかほの赤くのぼるけむりのその煙(けむり)はや
灰のなかに母をひろへり朝日子(あさひこ)ののぼるがなかに母をひろへり
蕗の葉に丁寧にあつめし骨くづもみな骨瓶(こつがめ)に入れしまひけり
うらうらと天(てん)に雲雀は啼きのぼり雪|斑(はだ)らなる山に雲ゐず
どくだみも薊(あざみ)の花も焼けゐたり人葬所(ひとはふりど)の天(あめ)明(あ)けぬれば
其の四
かぎろひの春なりければ木の芽みな吹き出づる山べ行きゆくわれよ
ほのかなる通草(あけび)の花の散るやまに啼く山鳩のこゑの寂しさ
山かげに雉子が啼きたり山かげに湧きづる湯こそかなしかりけれ
酸(すゆ)き湯に身はかなしくも浸(ひた)りゐて空にかがやく光を見たり
ふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふじの花ひでて食ひけり
山かげに消(け)のこる雪のかなしさに笹かき分けて急ぐなりけり
笹原をただかき分けて行き行けど母を尋ねんわれならなくに
火のやまの麓にいづる酸(さん)の湯(ゆ)に一夜(ひとよ)ひたりてかなしみにけり
ほのかなる花の散りにし山のべを霞ながれて行きにけるかも
はるけくも峡(はざま)のやまに燃ゆる火のくれないと我(あ)が母と悲しき
山腹にとほく燃ゆる火あかあかと煙はうごくかなしかれども
たらの芽を摘みつつ行けり山かげの道ほそりつつ寂しく行けり
寂しさに堪へて分け入る山かげに黒々(くろぐろ)と通草(あけび)の花ちりにけり
見はるかす山腹なだり咲きてゐる辛夷(こぶし)の花はほのかなるかも
蔵王山(ざわうさん)に斑(はだ)ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨(そば)ゆきにけり
しみじみと雨降りゐたり山のべの土赤くしてあはれなるかも
遠天(をんてん)を流らふ雲にたまきはる命(いのち)は無しと云へばかなしき
やま峡(かひ)に日はとつぷりと暮れゆきて今は湯の香(か)の深くただよふ
湯どころに二夜(ふたよ)ねむりて蓴菜(じゆんさい)を食へばさらさらに悲しみにけり
山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ (五月作)
8 みなづき嵐
どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも
わが体(たい)にうつうつと汗にじみゐて今みな月の嵐ふきたつ
わがいのち芝居(しばゐ)に似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも
みなづきの嵐のなかに顫(ふる)ひつつ散るぬば玉の黒き花みゆ
狂院(きやうゐん)の煉瓦の角(かど)を見ゐしかばみなづきの嵐ふきゆきにけり
狂じや一人(ひとり)蚊帳よりいでてまぼしげに覆盆子(いちご)食べたしといひにけらずや
ながながと廊下を来つついそがしき心湧きたりわれの心に
蚊帳のなかに蚊が二三疋(にさんびき)ゐるらしき此寂しさを告げやらましを
ひもじさに百日(ももか)を経たりこの心よるの女人(をみな)を見るよりも悲し
日を吸ひてくろぐろと咲くダアリヤはわが目のもとに散らざりしかも
かなしさは日光のもとダアリヤの紅色(くれない)ふかくくろぐろと咲く
うつうつと湿り重(おも)たくひさかたの天(あめ)低くして動かざるかも
たたなはる曇りの下を狂人はわらひて行けり吾を離れて
ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終(つひ)にかへり見ずけり (六月作)
9 麦奴
病監(びやうかん)の窓のしたびに紫陽花(あぢさゐ)が咲き折(をり)をり風は吹き行きにけり
いそぎ来て汗ふきにけり監獄のあかき煉瓦に降(ふ)れるさみだれ
飯(いひ)かしぐ煙(けむり)ならむと鉛筆の秀(ほ)を研ぎながらひとりおもへり
監房より今しがた来し囚人(しうじん)はわがまへにゐてすこし笑(ゑ)みつも
光もて囚人の瞳(ひとみ)てらしたりこの囚人を観(み)ざるべからず
紺いろの囚人の群(むれ)笠かむり草刈るゆゑに光るその鎌
監獄に通ひ来しより幾日経し蜩(かなかな)啼きたり二つ啼きたり
まはりみち畑にのぼればくろぐろと麦奴(むぎのくろみ)は棄てられにけり (七月作)
10 七月二十三日
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀(かみそり)研人(とぎ)は過ぎ行きにけり
夏休日(なつやすみ)われももらひて十日(とをか)まり汗をながしてなまけてゐたり
たたかひは上海(しやんはい)に起り居たりけり鳳仙花紅(あか)く散りゐたりけり
十日なまけけふ来て見れば受持の狂人(きやうじん)ひとり死に行きて居し
鳳仙花(ほうせんくわ)かたまりて散るひるさがりつくづくとわれ帰りけるかも (七月作)
11 屋上の石
あしびきの山の峡(はざま)をゆくみづのをりをり白くたぎちけるかも
しら玉の憂(うれひ)のをんな恋ひたづね幾やま越えて来りけむかも
鳳仙花城あとに散り散りたまる夕(ゆふ)かたまけて忍び来にけり
天そそるやまのまほらに夕(ゆふ)よどむ光を見つつあひ歎(なげ)きつも
(初版 天そそる山のまほらに夕(ゆふ)よどむ光りのなかに抱(いだ)きけるかも)
屋上(をくじやう)の石は冷(つ)めたしみすずかる信濃のくにに我は来にけり
屋根の上に尻尾動かす鳥来りしばらく居つつ飛びにけるかも
屋根踏みて居ればかなしもすぐ下(した)の店(みせ)に卵を数へゐる見ゆ
屋根にゐて微(かそ)けき憂(うれひ)湧きにけり目(ま)したの街(まち)のなりはひの見ゆ (七月作)
12 悲報来
七月三十日夜、信濃国上諏訪に居りて、伊藤左千夫先生逝去の悲報に接す。すなはち予は高木村なる島木赤彦宅へ走る。時すでに夜半を過ぎゐたり。
すべなきか蛍(ほたる)をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし
ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍(ほたる)を殺すわが道くらし
氷室(ひむろ)より氷(こほり)をいだし居る人はわが走る時ものを云はざりしかも
氷きるをとこの口(くち)のたばこの火 赤(あか)かりければ見て走りたり
死にせれば人は居(い)ぬかなと歎(なげ)かひて眠り薬をのみて寝んとす
赤彦(あかひこ)と赤彦が妻吾(あ)に寝よと蚤とり粉(こな)を呉れにけらずや
罌粟(けし)はたの向(むか)うに湖(うみ)の光りたる信濃(しなの)のくにに目ざめけるかも
諏訪のうみに遠白(とほじろ)く立つ流波(ながれなみ)つばらつばらに見んと思(おも)へや
あかあかと朝焼(あさや)けにけりひんがしの山並(やまなみ)の空(そら)朝焼けにけり (七月作)
13 先師墓前
ひつそりと心なやみて水かくる松葉ぼたんはきのふ植ゑにし
しらじらと水のなかよりふふみたる水ぐさの花小さかりけり (八月作)
―『赤光』岩波文庫 2003年 第4刷による