いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを
斎藤茂吉の歌集『赤光』「死にたまふ母」から主要な代表歌の現代語訳付き解説と観賞を記します。この歌は母の火葬の場面を詠っています。
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いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを
読み:いのちある ひとあつまりて わがははの いのちしゆくを みたりしゆくを
現代語訳
生きている人が集まって、私の母の死んでいくのを見ている その命が死んでいくのを
出典
『赤光』「死にたまふ母」
歌の語句
- いのちある…死者に対して生きている人たちを指す
- 死行く…読みは「しゆく」。「死んでいく」との意味であることはわかるが、語法的には無理があることが指摘されている。
句切れと表現技法
- 4句切れ
- 倒置
解釈と鑑賞
歌集『赤光』の中の一首。母が亡くなった直後の部屋の様子を詠ったもの。
この一首で、母の周囲には様々な「人」がいたことが、初めて明らかになる。
ここにいたるまでも、斎藤茂吉の長兄、妹、弟他のその家族らが、回りに付き添っていたと思われるが、歌は、周囲の人の存在を感じさせない形で詠まれていた。
歌の内容は、母の臨終を見守っていた作者茂吉が、ふと気が付くと、母を見守る多くの人に取り囲まれている。
茂吉がそこを離れようとしてなお、母の死を物珍しいものでも見ているかのようで、人々への反発にも思えるが、それについて、塚本邦雄は
「いのちある」の中の一人は作者であり、共に死ぬこともかなわぬ身は、ついに、母の死を傍観する他にはないその口惜しさを、このように、叩きつけるように歌っているのだ。
と断言する。
「死行く」の語法
「死行く」については、「「死」のような漢語に「行く」を続けるのは無理」として。「語法上の破綻がある」と品田悦一氏が指摘している。
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「死にたまふ母」の敬語の意味と訳 「死にたまふなり」「死にゆきたまふ」の用法
一連の歌
母が目をしまし離(か)れ来て目守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳足(ちた)らひし母よ
※こちらに詳しい解説ページあり
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ 斎藤茂吉
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
※詳しい解説ページあり
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり /斎藤茂吉
いのちある人あつまりて我が母のいのち死行(しゆ)くを見たり死ゆくを