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斎藤茂吉と西洋絵画 写生論の形成

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斎藤茂吉の短歌は絵画から影響を受けたり、絵画から摂取したものがあると言われています。

斎藤茂吉の短歌と絵画の影響を調べます。

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斎藤茂吉と絵画

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斎藤茂吉は、幼少より絵が好きでうまく、後年に至るまで多くの絵が残されています。

茂吉の長男である斎藤茂太氏は、茂吉の絵について

父の絵を見ると、細部の入念な描写、綿密さが、父の几帳面で完全主義的な気質を物語っている。そういう意味では、父の絵は、ドイツ・ルネサンスのアルブレヒト・デューラーの作品にどことなく似通ったところがあるように思われる

と述べています。

さらには、斎藤茂吉の短歌は絵画、特に西洋絵画に自ら学んだり、影響を受けたりしたものがあることがわかっています。

斎藤茂吉の作品については下の記事を

「西洋絵画からの悟入」土屋文明の指摘

土屋文明は、斎藤茂吉について

茂吉の短歌の上に加えたその近代化の仕事は、(中略)彼の交友、彼の西洋的教養、殊に西洋絵画からの悟入、もっと根本的なことをいえば、彼の性格天稟による

具体的には「日のもとの入江音なし息づくと見れど音こそなかりけるかも」に「この一首の感じは(中略)近代絵画に通ずるものと見るべきだろう」として、美術との関連を指摘しています。

この文明の指摘について、斎藤茂吉の絵画との関連を研究した片野達郎氏は

茂吉が対象の絵画の内面世界にまで没入して、その生命を感じ取り、それを短歌の世界に表現していく、その間の呼吸が如何なるものであるかを種明かししたものとして、大変貴重な発言というべきであろう。『斎藤雄吉のヴァン・ゴッホ』 片野達郎著

と、斎藤茂吉の絵画と短歌の関連を裏付けるものとして取り上げています。

他にも、斎藤茂吉研究家の藤岡武雄氏も以下のように指摘、

茂吉は印象は絵画の素材や表現手法を短歌創造に取り入れて西欧化近代を求めている。―藤岡武雄「斎藤茂吉 生きた足あと」

茂吉本人は、『作歌四十年』において、「西洋絵画の影響があった」と説明はしていますが、それ以上に具体的なところは示されてはおらず、実際の作品から読み取ることとなります。

「一本道」の連作のゴッホの影響

斎藤茂吉の短歌と絵画の影響を最初に指摘したのは、芥川龍之介です。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」のある一連の短歌について、

ゴツホの太陽は幾たびか日本の画家のカンヴアスを照らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛なる風景を照らしたことは必しも度たびはなかつたであらう。(中略)これらの歌に対するのは宛然さながら後期印象派の展覧会の何かを見てゐるやうである。―『僻見』芥川龍之介著

とゴッホとの関連を指摘したこの文章『僻見』は、たいへんよく知られています。

 

斎藤茂吉と絵画との関わり

斎藤茂吉と絵画の関わりは生涯に及んでいます。それをまとめると

  1. 少年期には画家になろうかと考えたほど、絵に優れていた
  2. 『赤光』に「地獄極楽図」の短歌連作
  3. アララギの歌人 平福百穂と深い親交
  4. 西洋留学中にルーブル美術館などで名画を鑑賞、自らも模写
  5. アララギに名画の批評を連載
  6. 正岡子規の「写生」論を捕捉解説し、「実相観入」を提唱

一つずつ解説していきます。

斎藤雄吉少年期の夢は画家

斎藤茂吉の義父となった紀一の父である、斎藤柳月という人物が、絵画に秀でており、茂吉少年に絵の手ほどきをしたことが、茂吉との絵画の最初の接点であったとされています。

それによって、将来は、画家になるかに弟子入りしようか、または養蚕業をしようとも考えていたようです。

『赤光』の地獄極楽図

正岡子規が詠んだ「地獄極楽図」を模倣した連作が、『赤光』に掲載されています。

この連作は、明治38年の書簡に記されており、正岡子規の「竹の里歌」に感動して、自らも短歌を作り始めたというとおり、最初に作られた短歌といってもいい作品です。

浄玻璃(じやうはり)にあらはれにけり脇差(わきざし)を差して女(をんな)をいぢめるところ
飯(いひ)の中(なか)ゆとろとろと上(のぼ)る炎(ほのほ)見てほそき炎口(えんく)のおどろくところ
赤き池にひとりぼつちの真裸(まはだか)のをんな亡者(まうじや)の泣きゐるところ
白き華(はな)しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ

斎藤茂吉の短歌の出発は、絵画を詠んだものであったことになります。

つまり、絵画を詠んだ正岡子規の元歌が、茂吉を短歌に近づけ、絵画が短歌に詠まれることで、茂吉の短歌世界が現出したともいえるのです。

アララギの歌人 平福百穂と交流

平福百穂(ひらふくひゃくすい)は、日本画家でアララギの歌人で、深い親交がありました。

『あらたま』の七面鳥は、スケッチをする画家の傍らで詠まれたものです。

穏田(おんでん)にいへゐる絵かき絵をかくと七面鳥を見らくあかなく
垂氷より光のかたまり落ちて来る七面鳥は未だつるまず
十方(じつぽう)に真ぴるまなれ七面の鳥(とり)はじけむばかり膨れけるかも
七面鳥ひとつひたぶるに膨れつつ我のまともに居たるたまゆら

最初の歌の「絵かき」というのが平福を差します。

西洋留学中に名画を鑑賞

ドイツ、オーストリアに留学の際は、パリにも行き、各地の美術館で、画家の原画に接したことが、その後の短歌に大きな影響を与えました。

ルウヴルの中にはひりて魂もいたきばかりに去りあへぬかも

ヴァン・ゴオホつひの命ををはりたる狭き家に来て昼の肉食(を)す

この時期に大きな影響を受けた画家には、他にもブリューゲルがあると言われ、ブリューゲルをはじめとする、画家の作品の模写や、内容のメモも手帳に詳細に記されました。

アララギに名画の批評を連載

昭和13年から17年の4年間、アララギの評家に名画を採用。それに対しての批評と鑑賞文を斎藤茂吉が記しています。

それらによると、外遊前から多くの西洋絵画に接していたことや、美術の専門書を読んでいたことがうかがわれます。

「写生」と「実相観入」

「写生」は元々正岡子規が提唱、アララギに定着した短歌のコンセプトですが、それを茂吉が幾度も解説。

これにも、絵画の写生と相まって、考えを深めていったことがうかがわれます。

斎藤茂吉の写生論については




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