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斎藤茂吉について

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斎藤茂吉は日本を代表するアララギ派の歌人で、教科書にも掲載される短歌「死にたまふ母」の作者としてよく知られています。

斎藤茂吉がどのような歌人なのかをまとめます。

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斎藤茂吉について

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斎藤茂吉は、1882年(明治15年)5月14日山形県生まれの歌人。本業は精神科医です。

1913年に刊行した歌集『赤光』によって一躍有名な歌人となり、歌人として世に知られるようになりました。

他に『あらたま』「白桃」「白き山」など17冊の歌集があり、生涯で1万8千首の短歌を詠んだと伝えられています。

アララギ派の歌人として、生涯に渡って作歌を続け、現在も日本の代表的な歌人の一人とされています。

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斎藤茂吉の記事目次

 

斎藤茂吉の生涯

斎藤茂吉は明治 15年(1882年)に山形県に生まれます。

神童と言われる成績で絵も書もうまく、小学校を卒業して東京で精神科の病院を経営していた斎藤紀一郎の養子になるべく上京。両親の元を離れて以後東京で暮らします。

東京帝国大学の医学部に入学、短歌は兄に贈った手紙などに記されていたことがわかっており、それ以前から詠んでいましたが、正岡子規の作品に共感、伊藤左千夫に短歌の質問を手紙に書いて送ったことで親交が生まれ、伊藤左千夫に入門をします。

アララギに投稿を続け短歌を通じて森鴎外など多くの知己を得て、伊藤左千夫が急逝した後、歌集『赤光』を刊行。歌壇だけではなくその名前を広く知られるようになります。

『あらたま』時代には北原白秋とも作品を通じて交流、『梁塵秘抄』を互いに摂取し合うなど文学的傾向の強い作品がおおくなります。

一方で、医師として長崎に赴任ののち欧州に留学を果たすなど、養子として結婚した家庭生活での妻との不仲に悩みながらも充実した生活を送ったといえます。

ところが、茂吉の渡欧中に病院が全焼。その後は再建のために心労の多い日を過ごしましたが、むしろそれが低迷していた短歌に再び力を注ぐきっかけとなりました。

この頃の作品は歌集『ともしび』にまとめられています。

中期の『白桃』時代には、妻てる子の不倫が新聞に載るところとなり、家庭内のトラブルが顕在化、傷心の日々を過ごしますが、その頃恋人となる永井ふさ子と出会います。

『暁光』の作品には永井との恋愛の影響が反映したものが多くみられるようになりますが、その後日本は戦争に突入し、戦争詠を詠んだ影響で戦後は、東京を離れ故郷の山形県にしばらく滞在します。

作品には敗戦とともに、孤独で痛切な内容のものが多くみられるようになりますが、その頃の歌集『白き山』は斎藤茂吉代表作歌集とされています。

その後は東京に戻り、晩年は息子の斎藤茂太の家族と同居、孫との散歩を楽しみとするなど穏やかな晩年を過ごし、昭和 28年(1953)、家族に丁重に看取られて亡くなりました。

正に、明治、大正、昭和の三時代を生き抜いた歌人といえます。

斎藤茂吉の略年譜

1882年 5月14日山形県生まれ。本名は「守谷」。

1896年(明治29年)遠戚の斎藤家の養子候補となり上京。名前は後に斎藤姓を名乗るようになる

1906年(明治39年)伊藤左千夫に入門。アララギに投稿

1910年(明治43年)東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)医学科卒業

1914年(大正3年)輝子(19歳)と結婚

1913年(大正2年)『赤光』刊行。1917年 長崎に赴任

1921年(大正10年)第二歌集「あらたま」刊行。精神病学研究のため欧州留学

1924年(大正13年)青山脳病院全焼。以後、再建に続き昭和3年、院長となって病院経営に携わる

1945年(昭和20年)山形県に疎開。代表的歌集『白き山』

1951年(昭和26年)文化勲章受章

1953年(昭和28年)2月25日、心臓喘息のため新宿区大京町の自宅で死去

 

斎藤茂吉の短歌代表作品

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斎藤茂吉の作品の中でも、短歌代表作として有名なものは、第一歌集『赤光』(しゃっこう)の中の「死にたまふ母」の一連の作品です。

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

これらの作品は教科書にも掲載されて、皆に知られる作品となっています。

「死にたまふ母」の一首ずつの解説と鑑賞は下の記事から

 

もう一つは、晩年の歌集『白き山』。

最上川詠と呼ばれる故郷山形の川を折に触れ詠み続けた作品を含むこの歌集は、斎藤茂吉の最高峰といわれています。

 

斎藤茂吉の私生活

斎藤茂吉の私生活についてまとめます。

斎藤茂吉の家族

斎藤茂吉は婿養子で、輝子との間に、長男に精神科医の斎藤茂太、次男に作家の北杜夫がいます。

夫婦仲に関しては、残念ながら、斎藤茂太が「水と油」と例えた通り、親の決めた結婚相手の輝子とは性格が合いませんでした。

夫婦間ではいさかいが絶えなかったうえ、輝子は「ダンスホール事件」というダンス教師との醜聞が新聞に書きたてられる事件を起こし、その後は、斎藤茂吉と一時別居をしていました。

※関連記事:
斎藤茂吉の家系図と家族 両親と養父母、子孫について

斎藤茂吉の恋愛

一方、茂吉の方は、歌の弟子として知り合った永井ふさ子と恋愛関係にありました。

後に永井ふさ子が、斎藤茂吉からの手紙を公表したことで判明、遺族や関係者を含め大きな驚きを与えましたが、この恋愛は、斎藤茂吉の短歌にも豊かな影響を与えました。

他に、斎藤茂吉の若い時の恋愛相手には、「おひろ」がおり、『赤光』の相聞として有名です。

精神科医として

斎藤茂吉の正業は精神科医で、大病院の院長職を務めましたが、好んでなったわけではなく、学費その他を援助してくれた養父斎藤紀一が精神科の病院長だったためです。

精神科医としての茂吉はというと、まずきわめて多忙でありましたが、その傍らで評論や隋挽くを含め、歌作と両立されたというところはやはり感嘆すべきでしょう。

医師としては、海外留学と論文制作も果たし、次男北杜夫らの伝聞では、説明のムンテラも巧みであったなど、なかなか良いお医者さんとして伝わってもいます。

病院経営者としては、病院が火災で焼失し、その後の再建を担うなど、大変な苦労もありましたが、息子も孫も精神科医として代々跡を継いでいます。

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斎藤茂吉と鰻

斎藤茂吉は健啖で食物を主題にした歌も多く、特に鰻好きとして有名です。

多い時には数日に一度食べていたことが日記の記録からわかります。

数えた人によると、生涯におおむね900匹あまりの鰻を食べた計算になるとのことで、茂吉自身も鰻の短歌を数多く詠んでいます。

 

斎藤茂吉の性格

精神科医の斎藤茂太氏は、斎藤茂吉の性格について、クレッチマーの性格分類の「粘着気質」と記しています。

また、斎藤茂吉は大変に癇癪(かんしゃく)持ちで、家庭での様子を子どもの斎藤茂太氏が述べているくだりがあります。

外面がよく内面が悪いというのは私も家族の一致した見解である。私どもは普段父のカミナリの恐怖にさらされていたが、父は一度他人の前に出ると打って変わって応対はいんぎん無礼を極めた。母には絶えず大きな雷が落ちたが、母は抵抗力はきわめて旺盛であったからいいとして、一番惨めなのは私であったと思う。日夜ただ恐れおののいていたといえば大げさになるが、とにかく楽な気持ちで付き合えた経験は、少なくとも子供の頃には一日もないと言っていい 。―「いい人」が損をしない人生術 より

一方、次男の北杜夫は一時は短歌を詠んだこともあり、歌人としての父を深く尊敬している様子がその著作からも伝わってきます。

北杜夫は父に倣って精神科医となりましたが、最終的には作家になったことも、父茂吉の影響が大きいことは言うまでもないでしょう。

斎藤茂吉の息子たち 作家の北杜夫と精神科医斎藤茂太

斎藤茂吉関連のおすすめの本

文庫本の斎藤茂吉の歌集。

斎藤茂吉について詳しくお知りになりたい方は、品田悦一先生の本をおすすめします。

品田悦一先生による斎藤茂吉の短歌の細かい解析については、こちらの本がすぐれています。上級者向け。

各歌集の解説は、佐藤佐太郎の新書は絶版。他に、塚本邦雄のものなら手に入ります。

おもしろく読めますが、こちらもやや上級者向きです。




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