斎藤茂吉の妻てる子との関わりはどのようなものであったのでしょうか。
一言で言うと、斎藤茂吉と妻は、結婚当初から仲の良い関係ではありませんでした。
その苦悩は斎藤茂吉の作歌にも大きな影響を与えています。。
二人の関係を時系列的に追いながら、斎藤茂吉の妻輝子を詠んだ短歌を鑑賞します。
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斎藤茂吉と妻てる子
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斎藤茂吉の妻てる子は、輝子の父によって、結婚が決められていた相手でした。
当人同士の意向ではなかったために、二人の仲は結婚当初から波乱含みのものとなり、結果的にはその苦悩が茂吉の短歌の原動力になった面もあり、けっしてマイナス面ばかりだったともいえません。
斎藤茂吉の輝子を詠んだ短歌を鑑賞しながら、二人の関係を時系列的に追っていきたいと思います。
斎藤茂吉の生涯の紹介については
斎藤茂吉 三時代を生きた「歌聖」
木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり
斎藤茂吉は、輝子が3歳の時に、斎藤家の養子となりました。
そのあと輝子と結婚させるという約束であったので、茂吉は、輝子を「幼な妻」として、歌に詠みました。
上は、斎藤茂吉の処女歌集『赤光』にある、をさな妻の代表的な作品です。
幼かった子どもであった、妻が今は、人に顔を赤らめるような、はにかんだ仕草を見せる大人の女性になりつつある、というのが一種の意味です。
この歌の詳しい解説は
木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり/斎藤茂吉『赤光』
他に、
をさな妻をとめとなりて幾百日(いくももか)こよいひももはや眠りゐるらむ
公園に志那のをとめをみるゆゑに幼な妻もつこの身愛(は)しけれ
をさな妻こころに持ちてあり経れば赤き蜻蛉の飛ぶもかなしも
この頃の歌は、妻に対する、愛しい気持ちを表しており、幸せな作者の心持が表されています。
水のべの花の小花の散りどころ盲目(めしひ)になりて抱かれて呉れよ
そして、妻を見守る一方で、早く自分の妻になってほしいという気持ちを上のようにも表しています。
当時は斎藤茂吉とは同じ敷地の家の中に住んでいたのですが、年齢差もあったために、なかなか結婚には至らず、養父の許しを待っていたものと思われます。
悲劇と諦観の歌集『あらたま』
そして、二人は結婚をしたことが第二歌集『あらたま』で表されます。
しかし、結婚と同時に、早くも茂吉にはてる子との相克が生まれたようです。
その理由は、多くの斎藤茂吉の解説書では、てる子には同じ病院に勤務していた医師と深い関係があった、と説明しています。
これは茂吉の子息の北杜夫も書いていることで、事実であったようですが、私の考えとしては、少し違います。
ただこの記事ではその点には深入りせずに、歌の方を記しましょう。
てる子との結婚と不和
をさな妻あやぶみまもる心さへ今ははかなくなりにけるかも
いきどほろしきこの身もつひにも出しつつ入日の中に無花果を食む
うつしみのわが荒魂も一(ひと)いろに哀しみにつつ潮間(しほかひ)をあゆむ
われつひに孤(ひと)り心に生きざるか少女(をとめ)に離(か)れてさびしきものを
黒々と昼のこほろぎ飛び跳ねてわれは涙を落とすなりけり
これから結婚をするというのに、これらの歌はみな、悲しみを詠ったものです。
そして、茂吉とてる子はこのころ結婚をしたようです。
ただし、入籍それ自体は、既に明治38年の養子縁組の時に済んでおり、入籍そのものは、長男茂太誕生の折の大正5年3月27日に行ったということなので、結婚というより、簡単な式の実を行い、同じお屋敷の中で同居を始めたということであったのではないかと思います。
研究書においても、茂吉の結婚式及び結婚の日の時期は特定できないとされています。
妻てる子との新婚旅行の短歌
大正3年1月に新婚旅行のようなものを行った時の歌。
松ばらにふたり目ざめて鳥がなく東土(とうど)の海のあけぼのを見つ
ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生まれてゐたりけるかも
東海の渚に立てば朝日子はわがをとめごの額を照らす
てる子との二人の旅行であったことは確かですが、新婚旅行の華やぎはなく、沈潜した寂しさが見て取れます。
この歌の詳しい解説は
ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生まれてゐたりけるかも 斎藤茂吉『あらたま』
「靴下の破れ」
さらに、そのあとには
朝どりの朝立つわれの靴下のやぶれもさびし夏さりにけり
という歌があります。
新婚の家庭であるのに、「靴下の破れ」とはどういうことか、いぶかしく思われます。
しかし、この歌に加えて、当時の資料には、東京巣鴨病院の医局日誌「卯の花そうし」というものがあり、靴下の破れをごまかすのに、墨を塗ってごまかしている茂吉の姿がイラストで戯画として描かれたものが残っています。
なので、作者は破れている靴下が恥ずかしいので、実際にもそのようにしていたことが目撃されていたことになります。
熱いでて臥しつつ思ふかかる日に言よせ妻は何をいふらむ
この歌を見ても、作者が発熱して臥床している、そのような日にも、てる子夫人は何も言わなかったらしいのです。
「妻であったら何を言ってくれるのだろうか」との意味の下句にそれがうかがえます。
そして、
こらへゐし我のまなこに涙たまる一つの息の朝雉のこゑ
のあとには
朝森に悲しく徹る雉子のこゑ女の連をわれおもはざらむ
下句は「女の連れ」つまり配偶者のことを、「私は思わないだろう」として、考えの外に追い払おうとして払いきれない作者の心境も見て取れます。
なぜてる子と離婚に至らなかったか
この頃は茂吉とてる子は、いわゆる家庭内別居のような状態で、茂吉は中村憲吉と飲み歩き、また、斎藤家を出ることも考えて、親しい友人ももその気持ちを書き送っていました。
なぜ、てる子と離婚をしなかったのかには諸説あり、「生活上において諦めが悪く、ものに執着して決断がなかなかつかない性格であった」(藤岡武雄)との指摘もありますが、婿養子という恩義を捨てきれなかった、また、北杜夫氏の書いているところだと子煩悩だったことなども関係しているのかもしれません。
そして茂吉は結局、てる子と離婚をすることも、斎藤家を出ることもありませんでした。
妻の愛を得られないまま、不自由な生活を続けることとなり、『あらたま』における「諦観」とは、そのような結婚生活の受容をする覚悟でもあり、それがこの歌集に通底する主題ともなったのです。