灯あかき都をいでてゆく姿かりそめの旅と人見るらんか
斎藤茂吉の歌集『赤光』「死にたまふ母」から主要な代表歌の現代語訳付き解説と観賞を記します。
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「死にたまふ母」の全部の訳を一度に読むなら 斎藤茂吉 死にたまふ母其の1 からどうぞ。
※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
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灯あかき都をいでてゆく姿かりそめの旅と人見るらんか
読み:ともしあかき みやこをいでて ゆくすがた かりそめのたびと ひとみるらんか
現代語訳
光の明るい都会を出て行く私の姿を、ただの旅行だと人は見るだろうか
出典
『赤光』「死にたまふ母」 其の1
歌の語句
- 灯あかき…この「あかき」は、「赤い」よりも、「明るい」の意味。基本形「明かし」
- かりそめの…辞書の意味は「一時的なこと。 間に合わせ。 軽々しいこと」。ここでは単なる小旅行との意味
- 人見るらんか…「人」が主語。見る+推量の助動詞「らむ」
作者はここでは、旧仮名遣いの「む」を避け、新仮名遣いの「ん」を用いている。
「か」は疑問の終助詞
句切れと表現技法
- 3句切れ
- 疑問
解釈と鑑賞
歌集『赤光』の中の一首。母の住む故郷への汽車に乗って旅立つ場面。
→「死にたまふ母」連作のあらすじを知って理解を深めよう
作者は東京に住んでいたが、母の住む故郷は山形で、夜行列車に乗ったと思われる。
この歌に先行して、「うちひさす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり」がある。
都会の光があまりに明るくまばゆいが、そこには、母の危篤の報に、母の死を予感する作者の内面とかけ離れている思いが、「あかし」と読ませているのだろう。
「あかし」には、「赤い」という意味での「赤し」と、明るいという意味での「明かし」の両方とがあるが、この場合は、後者の都会の明るさの方と取るべきだろう。
「いでてゆく姿」というのは、自分自身を客観的に俯瞰していう表現となっているが、その後に「人」という主語があり、この部分も「人」から見ての、自分の姿であることがわかる。
「かりそめの旅」は小旅行のことであるが、かりそめには「軽い」の意味があり、旅行につきものの浮かれた感じは作者にはまったくない。
しかし、人から見ると、自分自身も単なる一人の旅行者に見えるだろう、母の死という重大事を抱えた人には見えまいという逆説的な叙述がが、内面の気持ちの重さを「人」の視点と同じく、距離をとって強調している。
なお、先行する「うちひさす都の夜(よる)にともる灯(ひ)のあかきを見つつこころ落ちゐず」(初版は「うちひさす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり」)と比べてみると、最初の歌が、自分の心境と行為を直截に歌っており、2首目のこちらは、「人」を主語にした距離を取った歌い方になっている。
主題は同じであるが、同じく「都の夜」を軸にして、バリエーションを持たせて工夫をしていることが分かる。
「いでてゆく」の解釈
塚本邦雄は、「いでてゆく」というのは、汽車に乗って出立するところで、汽車の中から明るい町を眺めたという解釈である。
汽車が、山形に着いたところについては、このあとに「吾妻(あづま)やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり」がある。
一連の歌
一連の汽車に関する短歌は、以下の通り
うちひさす都の夜(よる)にともる灯(ひ)のあかきを見つつこころ落ちゐず
ははが目を一目を見んと急ぎたるわが額(ぬか)のへに汗いでにけり
灯(ともし)あかき都をいでてゆく姿かりそめの旅と人見るらんか
たまゆらに眠りしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや
吾妻(あづま)やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり
朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて母にちかづく汽車走るなり
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