土屋文明から見た斎藤茂吉の印象はどのようなものだったのでしょうか。
朝日新聞社刊の『折々の人』に土屋文明自身が記した文章から探ってみます。
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土屋文明は斎藤茂吉の弟分
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土屋文明は、伊藤左千夫に弟子入り、伊藤左千夫宅で当初は家業の牛の世話などをしながら、短歌の勉強に励みました。
同じく左千夫門であった斎藤茂吉は、その兄弟子にあたります。
『赤光』には、若い頃の土屋文明を詠った歌として、
おのが身をあはれておもひ山みづに涙落しし君を偲ばむ
という、「土屋文明へ」と題する一連があります。
一高在学中の文明が気を病んでいた折、茂吉が同情する気持ちを詠んだものです。
そのような若い頃から、二人の交流は生涯続いたようですが、中村憲吉や古泉千樫のように、外面的にはそれほど親しかったという印象はありません。
しかし、近藤芳美他によると、二人の関係は「簡単には言えない」と言い表す人が多くいます。
特に作歌の点で、茂吉が文明に対して与えた影響は思いのほか大きかったようです。
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「無類の歌好き」であった斎藤茂吉
土屋文明から見た茂吉は「無類の歌好き」であったということです。
これは歌人ならだれもがそうではないかと思うのですが、伊藤左千夫と並べて「二人とも無類の歌好き」というのですから、歌人の中でも特別にというニュアンスのようです。
さらに
茂吉は歌が好きで歌だけで人と接触する。伊藤左千夫にもまたそうであったがために、作歌上の意見はいくら違ってきても、それは作家上の問題としてだけ処理できた。
そして、それは誰に対しても言えることで、与謝野晶子にも、斎藤茂吉が挨拶をした折、与謝野晶子の方は「木で鼻をくく」った態度であったのに対して、茂吉は何も気にした様子がなかったと言います。
斎藤茂吉の評価
土屋文明の交流における、斎藤茂吉のウエイトは
私は交友の極めて狭い生涯であったので(中略)その少ない交わりの中に茂吉があったということは、誠に幸運と言わればならない。最も長い交わり、私の方からすれば最も深い交わりをこの人に結び得たのであった。
また斎藤茂吉の歌人としての評価に関しては、
狭いながらもいく人かの文学関係者に接した中で、本当に詩人という感じを受けたのは茂吉が随一であった
と述べています。
これらは評価というよりも、茂吉を一段上の歌人として認め、尊敬を表す言葉であると思います。
世俗事に疎かった斎藤茂吉
また、近くで茂吉を見てきた印象として、茂吉が極めて世事に疎かったということを述べているのも、重要な点かもしれません。
外面的には文学者というより脳病院長として生活したように見えるのは、茂吉の世俗事のうとさによるものと考えてもよいのではあるまいか。こと文学に関すると、あれほどの勇気ある茂吉が、世俗事になるとひどく臆病であり、文学の上では進展また進展、新境地を開く人が、世俗事になると優柔不断、ひどく保守的なのは、その何によってくるのか、私などには全く見当がつかない。
「あるいはこの矛盾するごとく見える二面が茂吉の詩人を形成する要素であるのかもしれない」というのが、斎藤茂吉の不可解な人格に対する結論です。
山形弁と田舎者
また茂吉のライフスタイルについては、「田舎者」ということは、誰から見てもわかることであったようです。
文明は書いていませんが、ライフスタイルだけではなくて、まず、言葉の点で、どうしても山形弁が抜けず、いわゆる東京弁にもなじめなかったようです。
実生活における茂吉が終生田舎者という部類に数えて良いことも印象的だ。都会人としても、派手好みの生活様式を身辺に持ちながら、茂吉は、終生生活態度において田舎者であった。ことにその衣食住において田舎者であった。
生活態度を含めて、その時々の周囲と調子を合わせてゆくことが苦手で、第三者からは孤独に立つ悲劇の主人公のように見えることがあったということも文明は明かしています。
以上『折々の人』(朝日新聞社刊)から、土屋文明の斎藤茂吉に関する部分をご紹介しました。