武川忠一歌集『氷湖』の短歌の鑑賞 認知症を病む母親を詠む  

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武川忠一歌集『氷湖』の短歌の鑑賞 認知症を病む母親を詠む

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これまで出会った数々の歌のうちに、一度読んだら忘れられない歌がある。
武川忠一(むかわちゅういち)の『氷湖』に母を詠んだ一連の作があり、この歌集の高峰と言われている。
そのうちの一首を塚本邦雄が取り上げたものを目にして、そこから歌集をたどることになった。

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武川忠一の短歌

武川忠一の育った家庭については詳しく知らないので、歌と歌集の評他から推し量るのみだが、父上の「放埓」、おそらくは婚外の女性関係を指すのだろう、それを母上が堪え忍ぶのを見続けてきた子ども時代であったらしい。

堪え忍ぶ母の像

少年のわれを支えてありしものすがすがと靭かりし母の忍従
放埓の父が強いたる苦しみと思うに母は亡骸に哭く
死に際の一言母にやさしくて母には残るその一言が
父の死を哭かずにいでて立てる庭松の根本の土乾きたり

作者は父に反感を持ち、母に同情を傾けながら育ったに違いない。しかし、二首目を見ると、亡骸に泣く母に作者は必ずしも同調してはいない。
一方で、そのような関係にある母の老いというものが、酷薄なまでに歌に描写されている。

母の老いを詠う

障子明け臥所の母に見せている粉雪(こゆき)をもろき平安とする
足立たぬ体となりてしまいては母は童女のごとく笑える
人間の醜を曝せる物語ふるさとの屋根を雪落ちて行く
屋根の雪溶けて落ちゆく音に消えよ終わりとなりし物語一つ

それまで作者が母と築いてきた関係は、その粉雪の中で終わりを告げたのであろう。放埓な父と堪える母という父子の三者関係は、母の老いにもろくも崩れ去ったことを作者は知る。

 

筋高き手のかさかさに荒れ給いうとまるる母病の長し
放埓の父に仕えし靭き性母呆けたり畳を這いて

これらも一種の介護の短歌ではあるのだろうが、もっと根源的な母との関わりを含むようにも思える。
作者は、「すがすがと靭かりし母」とは詠んでいても、母を讃えてはいない。むしろ父の亡骸に泣く母に、死後も独占し得ない母の愛情を父と競うエディプスの影も見えてくる。

 

山の湖岸の柳は黄にふふみ今去りてゆく病む母背負い
再びを母の見ざらんふるさとの庭の白梅老いて花持つ
廊下這う着物の裾は乱しつつ誰にもこの母を見られたくなし
生まれたる松本か諏訪かわからなくなり自らを笑う童女のごとく
わが知らぬ流行歌手の名前など言いいしが母は口開け眠る

作者は母を連れて故郷を離れる。そのことによっては母の病は強まっていくのだが、作者は、童女のようになってしまった母の言葉に耳を傾け、その挙動の一つ一つに老いの病を持つ母の心を推し量る。

 

生きていて死にいる母の命にて子のわれ通り風吹き抜けよ
朝の風吹きぬけていけ遠き日のその母の日を知るものもなく

これらの歌を見ると、酷薄なまでの歌の裏にある、作者の母への関心と愛情は疑いもない。
愛情とは歴史の共有でもある。母の上に、もはや誰も見ることができない過ぎ去ってしまたものをも、わずかに愛情を持つ者だけが蘇らせることができるのだ。

 

一つずつわからなくなる母の日々既に悲しみも淡く移りて
呆けし顔闇に向けいる老醜に口つぐみいるは子のわれ一人
ふるさとに帰りてゆきし幻の無礙自在なる母の呼ぶ声
雪道をさくさくと踏む幻を見ている母に朝明けは来る

塚本邦雄が引いたのは、次の一首。

 

子のわれに誰ぞと問いて幻の波寄る湖(うみ)に佇む母か

母はとうとう、息子である子もいなくなった幻の中に一人佇む。その幻の風景は、どこか不思議に美しい。
「危うくも生ある母の幻聴の湖の波音われに聞えよ」と、作者は、母の中にかすかに見え隠れする幻に分け入ってまで、母の命の果てを共に歩もうとする。

母と子として、一人の人としての、母の一生を見定める作者。恐ろしくも哀しいのは、親を持つ誰でもが、このような出来事に会う機会を持っているということだ。

先月に義理の父を亡くしたばかりでもあって、あらためて深く一連の作品を読み直した。
なお、歌集題名の『氷湖』は、作者武川忠一は諏訪の生まれなので、諏訪湖のことであろうと思われる。

 

武川忠一 むかわ-ちゅういち

1919-2012 昭和-平成時代の歌人。
大正8年10月10日生まれ。早大在学中に窪田空穂(うつぼ),窪田章一郎に師事し,昭和21年「まひる野」創刊に参加。青年歌人会議や東京歌人集会の結成にもくわわる。53年早大教授。57年「音」を創刊,主宰。同年「秋照」で迢空(ちょうくう)賞,平成9年「翔影」で詩歌文学館賞。19年「窪田空穂研究」および過去の全業績で現代短歌大賞。自己の内面を問う歌に特色があった。平成24年4月1日死去。92歳。長野県出身。歌集に「氷湖」「青釉(あおゆう)」など。




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