少し前の朝日新聞の読書欄に歌人の穂村弘さんが書いた文章を読んでいて思い出したことがあった。
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穂村弘さん「読書について」
映画などで、親から出生の秘密(「実はお前は私がお腹〈なか〉を痛めた子じゃないの」とか「お前たちは本当は血を分けた兄妹なんだ」とか)を告げられた主人公がショックを受ける、というシーンを見ることがあります。
それまで信じていた世界が親の言葉によって覆ったのです。いや、正確にいうと覆ったのは世界ではない。何故(なぜ)なら、親が子供に出生の事実を語る前と後で血の繋(つな)がりやDNAが変化したわけではないから。その意味では、物理次元の世界は何一つ変わってはいない。
つまり、親の言葉で覆ったのは世界そのものではなく、主人公の心の中の世界像ということになります。
以前、鹿児島寿蔵について書いたとき、 鹿児島寿蔵〜「日本の詩歌」より 解説の斎藤正二が書いた「指先の麻痺した癩盲者に”点字舌読”用の歌集を作って寄贈したりもした。
言うはやすく行うにかたいこれらの善行は、実は寿像の”歌ごころ”の発露にほかならない。」に、自分も同じことを感じたのだが、それがうまく説明できなかった部分である。
下手に説明しようとすれば、短歌が道徳や宗教と結びつくことになってしまったに違いない。
「言分け」の理論
穂村の言っていることは「言分け」ということと同じであって、我々は言葉に拠って世界を認識している。おそらく動物にとっては「親」は生まれた時から身近にいる同種のものであって「親」という血縁関係を持つものではない。
あるいは時間の感覚を持たない動物には「昨日」も「明日」もなく、ただ無限に今の連なりを生きているに違いない。
それと似たように、歌を詠む人にとっては、歌に表されたことこそが「世界」なのであろう。もちろんそれは寿蔵の主観を反映した世界である。
それがいったん歌の中で具現化してしまうと、われわれ歌詠みはそれを追認する形でこの世界---便宜上、現実の世界と呼んでおくが---を生きることになる。 もっとも現実の世界とはいっても、それも寿蔵の認識した世界、もしくは、今私が他者と共有し得ると思っている範囲の世界である。
一方で私たちは解説者同様、寿蔵一人の主観の歌の世界をも知り分けて共有することができ、その世界について対話することもできる。
そうなると、私たちは無意識的に複数の多層の「世界」を持っており、想定する他者との領域において流動させながら、その往還の無数のスペクトラムの中を生きていることになる。
その現実の世界と歌の世界が多重に相互の往還を続けている限り、それは歌人の中で同時に成り立つものであり、どちらが主とも従とも言い切れない。
歌の世界は歌人一人の主観によるもであり、歌人自らが揺らがせない限り他の侵害を受けずに保持される。あるいは、その辺りが解説者がのいう「歌ごころの発露」の説明に近いところかもしれないと思う。