杉原千畝 命のビザの短歌 夫人杉原幸子の歌集『白夜』より  

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杉原千畝 命のビザの短歌 夫人杉原幸子の歌集『白夜』より

2018年2月3日

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杉原千畝氏の夫人杉原幸子さんが、ビザ交付事件の当時の状況を短歌にして残していたものがあります。

杉原幸子さんはビザ交付にも協力、歌誌「アララギ」の同人として短歌を投稿されていました。

きょう杉原千畝氏の忌日の日めくり短歌は、命のビザを詠んだ短歌をご紹介します。

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杉原千畝「命のビザ」とは

杉原千畝(すぎはらちうね)氏は、ユダヤ人に渡航のためのビザ「命のビザ」を交付したことで知られています。

杉原氏は当時外交官として、リトアニアの日本国総領事館に赴任していました。

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杉原千畝氏がビザを交付した状況

1940年7月18日、ポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民、多くユダヤ人たちがビザを発行して欲しいとして領事館に多数押し寄せてきました。

外務省はビザの発給を拒否、しかし、杉原氏は難民たちを放っておけず、大量のビザを手書きで制作することとしたのです。

命を助けられたとして、そのビザは「命のビザ」と呼ばれるようになりました。

そして、ビザを発給した、杉原氏は「東洋のシンドラー」として語り継がれています。

 

杉原千畝氏のビザ発給の判断

この出来事はテレビでも伝えられることが多いのですが、事実は複雑で、単に難民を助けたという以上に、そこに至るまでの杉原氏独自の苦悩と判断がありました。

その時、杉原氏は迷った末に「領事の権限でビザを出すことにする」それでいいかと夫人に問いたといいます。

夫人は「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と返答をし、夫妻は心を決めました。

杉原幸子夫人の短歌は、その時の杉原氏の心境と様子を下のように詠んでいます。

 

杉原千畝「命のビザ」の短歌

ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる夫のベッドの軋むを聞けり

苦しみし二夜は明けぬ夫と我の命かけ救はむ心定まる

つまり、杉原氏は最初からビザを出そうと思ったのではなく、2日間は迷いに迷いその末に決断をしたのです。

外務省は出してはいけないと言った、杉原氏の煩悶はそこから始まりました。

杉原氏の見たユダヤの人々

領事館の前に詰めかけた人々の様子は以下の通りです。

ナチスに追われ逃れ来しユダヤ難民の幾百かの眼がわれを凝視(みつ)むる

これ等の難民は、杉原氏の住む領事館公邸の門の前に集まって、声をあげて訴えを続けていました。

「なんとかビザが欲しい、そうでなければ、自分も家族の命も助かるはずがない」

そう思って、他国に逃れたいと願う人たちを、杉原氏は放っておけなかったのです。

それから、来る日も来る日もなんと1カ月にもわたり、杉原氏はビザを書き続けました。

ビザは電車の窓越しに

走り出づる列車の窓に縋(すが)りくる手に渡さるる命のビザは

杉原氏と幸子夫人は自分たちもリトアニアを離れることとなり汽車で出立しましたが、そこまでの道中でもビザが欲しいと杉原氏を追ってきたユダヤ難民に渡そうと、ビザの書類を書き続けました。

心を決めた杉原氏は一人でも多くのユダヤ人を救おうとして、あの日以来眠る時間以外はすべてビザ書くことに費やされました。

外務省を失職した杉原氏

その結果杉原氏を待っていたのは、現在のような賞賛とは程遠いものでした。

杉原氏はビザを交付したことで外務省を失職したのです。

しかし、その時交付されたビザで4千人(一説によると6千人)が日本経由で他国に逃れることができました。

2000年には、河野洋平外務大臣による名誉回復、後に杉原氏は「人道的行為を尽くした」行為によって、顕彰を受けています。

作者夫妻が自らの命をかけて、手が痛むまで作り続けたビザ。

それによって命を助けられた人がいるというこの出来事は今では語り継がれて、広く人々に知られるところとなっています。

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