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「およぐひと」「こころ」「蝶を夢む」「ぎたる弾くひと」 萩原朔太郎

更新日:


         およぐひと
                       萩原朔太郎
 
およぐひとのからだはななめにのびる、 
二本の手はながくそろへてひきのばされる、           
およぐひとの心臓(こころ)はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳(め)はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。

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マンドリンと朔太郎

朔太郎は、文字通り、ギターを弾く人だった。
正確には手がけた楽器はマンドリンだが、楽器の抱え方や演奏の仕方は、ほぼギターと同じといっていいだろう。

        ぎたる弾くひと     -------萩原 朔太郎

ぎたる弾く
ぎたる弾く
ひとりしおもへば
たそがれは音なくあゆみ
石造りの都会
またその上を走る汽車 電車のたぐひ
それら音なくしてすぎゆくごとし
わが愛のごときも永遠の歩行をやめず
ゆくもかへるも
やさしくなみだにうるみ
ひとびとの瞳は街路にとぢらる。
ああ いのちの孤独
われより出でて徘徊し
歩道に種を蒔きてゆく
種を蒔くひと
みづを撒くひと
光るしやつぽのひと そのこども
しぬびあるきのたそがれに
眼もおよばぬ東京の
いはんかたなきはるけさおぼえ
ぎたる弾く
ぎたる弾く。

マンドリンのサークルにも参加し、一時はそれで身を立てようと思ったこともあったようだ。
朔太郎作曲の曲というものも楽譜に残されている。

写真や手品など、趣味の多い人でもあった。
朔太郎の娘の葉子は、それら遺品を見て、父の孤独を胸が痛くなるくらい感じたという。

この詩もまた、悲しい詩人の魂の彷徨が主題である。

朔太郎の詩に曲をつけるとは

私は高校生の頃、音楽専門の科にいて、作曲の先生に、歌曲を作曲するように言われたことがある。
もっとも、課題というのではなく、その年代は作曲専攻はその学校には私一人しかいなかったので、要は何でもやってみろということだった。
「詩はどうしたらいいでしょう」
と私が先生に尋ねると、先生は
「なんでもいい。君の萩原朔太郎でもいいからさ」
そのように言ったのを憶えているところを見ると、どうやら私はそれ以前に萩原朔太郎が好きだとかなんとか話してもいたらしい。上記の事情で授業はいつも一対一だった。
それをきくと、私は大いに憤慨し
「とんでもない、そんなことはできません」
と返答した。
当時は、それは朔太郎の詩に対する冒とくだと思ったわけなのだが、要は学習のためなのであったから、今になってみると、それで作っておけばよかったなあと思うのだ。
まあ、朔太郎の詩にもいろいろなものがあるのだから、短歌の「ソライロノハナ」でもよかったし、全集を探せば朔太郎自身の習作のようなものでも探し出せたかもしれない。

どんな詩にも曲が付けられるわけではない

その後、ネットに曲を出す際に、普通の歌謡曲のジャンルで作詞家と組んで、曲をたくさん作った、というより主にアレンジをしたのだったが、作曲を想定せずに作られた詩に曲をつけるのはたいへんだということだ。
つまり、ABサビという形式で、各部分の字数がそろえてあるとか、サビに山が来るようにといった基本が満たされていないと、無理にメロディーに押し込めることになってしまう。
曲をつけることを想定していない場合はとにかく短い詩に限る。長いものだと収まりきらないのが常なのだ。
そう考えると、この下の「こころ」なら、今考えると何とか作れそうな気がする。
           こころ    
  
こころをばなににたとへん
 
こころはあぢさゐの花
 
ももいろに咲く日はあれど
 
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
 
音なき音のあゆむひびきに
 
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
            
            --叙情小曲集より

朔太郎の詩に買った蝶の図鑑

思い出すと、高校生の時、私は蝶の図鑑を買ったのだった。もちろん、朔太郎の下の詩を読んだからだ。

       
      蝶を夢む
  
                
座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼(はね)をひろげる
蝶のちひさな 醜い顔とその長い触手と
紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。
わたしは白い寝床のなかで眼をさましてゐる。
しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする
夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語
水のほとりにしづみゆく落日と
しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。

夢をみながら わたしは幼な児のやうに泣いてゐた
たよりのない幼な児の魂が
空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。
もつともせつない幼な児の感情が
とほい水辺のうすらあかりを恋するやうに思はれた
ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

あたらしい座敷のなかで 蝶が翼をひろげてゐる
白い あつぼつたい 紙のやうな翼をふるはしてゐる。

そうだ。その頃私は息をするたび自分の肋骨の中に、蝶が羽を開いたり閉じたりするような感じを持ってひとりで暮らしていた。

一人で暮らしていると、会話は音楽だった。言葉は詩だった。

本は自宅に置いてきてしまっていた。持っているのは朔太郎の詩集、そしてその蝶の図鑑、抱えているものはそれだけだった。

でもそれで十分だった。なぜならその図鑑の中には、たくさんの蝶が映っていたから。
考えられないほど様々な色合いの羽を思い思いに広げて。

あれほど贅沢な図鑑はそのあとも見たことはない。

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